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[[画像:Makovsky bojarina u okna.jpg|thumb|250px|マリヤ・スターリツカヤ]]
'''マリヤ・スターリツカヤ'''または'''マリヤ・ウラジーミロヴナ'''([[ロシア語]]表記:Мария Старицкая,1560年頃 - [[1610年]][[5月13日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[イヴァン4世]]の従弟である[[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|スターリツァ公ウラジーミル]]の娘、母は公女エウドキヤ・オドエフスカヤ。モスクワの[[リューリク朝]]最後の直系子孫。
 
== 生涯 ==
幼いころに両親はイヴァン4世によって処刑されており、兄弟姉妹も亡くなってスターリツァ公家の唯一の生き残りとなっていた。1574年4月12日、イヴァン4世が[[リヴォニア戦争]]の戦略の一環として、傀儡に立てられた[[リヴォニア王国|リヴォニア王]][[マグヌス (リヴォニア王)|マグヌス]]と[[ノヴゴロド]]で結婚した。夫の死後、敵に囲まれて窮地にあったマリヤは、[[イングランド人]]使節[[ジェローム・ホーセイ]]によって[[クールラント]]から救出されて、[[モスクワ]]の摂政[[ボリス・ゴドゥノフ]]の許に連れ戻された。ホーセイは彼女との結婚を望んだか、ボリスはイングランド人で騎士身分に過ぎないホーセイに、これを許さなかった。その後、マリヤは[[セルギエフ・パサード至聖三者セルギー大修道院|トローイツェ・セルギエフ修道院]]の近くにある女子修道院に入った。1609年にマリヤはツァーリを僭称する[[偽ドミトリー2世]]の支持者となったらしい。
 
== 子女 ==
夫との間に2人の娘をもうけたが、いずれも早くに亡くなった。
*マリー(1580年頃 - 1597年頃)
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[[Category:ロシア皇族]]
[[Category:リューリク朝]]
[[Category:モスクワ・ロシア]]
[[Category:后妃]]
[[Category:1610年没]]