「グレン・カーチス」の版間の差分

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飛行テストに先立つ[[1908年]][[6月20日]]、ライト兄弟はカーチスに対し「ジューン・バグ」が兄弟所有の[[たわみ翼]]の[[特許]]を侵害している旨の警告書を送っていた。しかし事実上これを無視し、[[1909年]][[3月20日]]にカーチスは自身の航空会社[[オーガスタス・ヘリング|ヘリング]]・カーチス社を設立して飛行機の製作を開始した。8月にライト兄弟は提訴、[[1910年]]1月の[[裁判]]でカーチスは敗訴し会社は倒産の憂き目を見た。しかし6月の[[控訴]]審で判決は覆り、会社は再興された。
 
さらに[[1914年]]、ライト兄弟と抗争状態にあった[[スミソニアン博物館]]の[[チャールズ・ウォルコット]]と手を組み、カーチスは[[1903年]]に失敗した[[サミュエル・ラングレー]]製作の飛行機「[[エアロドローム]]」を[[水上機]]に改造し、[[6月2日]]に飛行試験を成功させた。これはカーチスにとっては特許紛争を有利に運ぼうと、ウォルコットにとってはラングレーの名誉を回復するために画策されたものだった。しかしながらカーチスによるこの「改造」は、ほとんど原形をとどめない程に徹底したものであり、これをもって「ラングレーはライト兄弟よりも先に飛行可能な機体を開発していた」と主張する事は不当であると後に認められている。
 
その後もカーチスとライト兄弟の争いは続いたが、[[1917年]]の[[第一次世界大戦]]への参戦を契機に、アメリカ政府の主導により航空機製造業協会が設立され、同協会による航空機関連特許の集中管理が実施された事で終止符が打たれた。その背景には軍事用として飛行機が注目されていたことがあった。カーチス自身、[[1910年]]には既に彼が製作した「ゴールデン・フライヤー」号改良型が偵察巡洋艦バーミンガムから初の艦載機離陸を成し遂げており、[[1911年]]には飛行艇を完成した功績を認められ、第1回コリアーズ賞を受賞していた。[[1917年]]、カーチスは[[陸軍]]用[[戦闘機]]の製造に関する契約をアメリカ政府と結んだ。
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