「鈴木三樹三郎」の版間の差分

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== 出生 ==
[[1837年]]、[[常陸国|常陸]][[志筑藩]]士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の二男として志筑に生まれる。父忠明は不始末によって藩を追放された父忠明は東大橋村(現:[[石岡市]])にて私塾を主宰しており、父の死後は代わって私塾を経営した。のち同藩士(中小姓格)・寺内増右衛門の養嗣子となって'''寺内多聞'''と称し、藩の山林取締役兼御朱印番に就いたが、酒など素行問題のため離縁される。その後、'''三木荒次郎'''を称す。その後に脱藩し、当時、[[江戸]]深川の道場主であった兄伊東のもとに身を寄せて[[神道無念流]]を修めた。
 
== 新選組時代 ==
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== 明治以降 ==
[[1869年]]7月、[[弾正台]]少巡察。[[廃藩置県]]後は'''忠良'''と改名。[[伊那県]]や[[司法省]]、[[千葉県]]、[[山形県]]などにおいて、主に司法・警察関係に奉職する。[[1879年]]には鶴岡警察署長として[[行幸]]の指揮を執っている。[[1885年]]1月、[[福島県]]二等属を最後に退官。退官後は[[茨城県]][[石岡市|石岡町]]にて余生を送った。
 
1919年7月11日、老衰のため死去。享年83。墓は石岡市の東耀寺。