「村国男依」の版間の差分

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== 壬申の乱での活躍 ==
男依は[[舎人]]として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は[[吉野]]にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依は[[和珥部君手]]、[[身毛広]]と三人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡([[安八郡]])の湯沐令[[多品治]]に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に[[伊勢国]][[朝明郡]]の[[郡家]]のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより[[近江宮|近江京]]にいた[[弘文天皇|大友皇子]]は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。
 
男依は[[舎人]]として大海人皇子に仕えたと考えられている。壬申の乱で大海人皇子が挙兵を決断したとき、男依は[[吉野]]にいた皇子のそばにいた。皇子自身が行動をおこす2日前、6月22日に、村国連男依は[[和珥部君手]]、[[身毛広]]と三人で美濃国に先行するよう命じられた。彼らの任務は、安八磨郡([[安八郡]])の湯沐令[[多品治]]に連絡し、まずこの郡を挙兵させることであった。彼らは無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。男依は駅馬でとって返し、26日に[[伊勢国]][[朝明郡]]の[[郡家]]のそばで大海人皇子に成功を報じた。これにより[[近江宮|近江京]]にいた[[大友皇子]]は東国との連絡を遮断され、東国の兵力は大海人皇子の手に帰すことになった。
 
不破関に入って美濃国と東国全般を勢力下におさめた大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手にわけ、一方を倭([[大和国]])に向かわせ、他方を[[近江国]]に投入した。男依は近江方面の軍の将となった。『[[日本書紀]]』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官の役目は[[高市皇子]]にあったと考える学者もいる。しかし、以後の記述で近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。男依を第一と位置づける評価の表れであろう。