「第二次共産党 (日本)」の版間の差分

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''以降、[[武装共産党]]・[[非常時共産党]]・[[リンチ共産党]]も参照のこと。''
;獄中・獄外両指導部の分立
四・一六による指導部の壊滅以降の共産党指導部は、「三・一五 - 四・一六」共同被告団の中心として公判闘争を指導する、佐野・鍋山・市川・三田村らの「'''獄中指導部'''」、獄外において党再建を進める「'''獄外指導部'''」に分かれ、互いに連絡を取りながら活動を続けた。しかし第一次共産党あるいはビューロー以来の経験豊かな幹部のほぼ全員を獄中に奪われた党のダメージは極めて大きく、いものだった。のため、以後の党指導部は、学生運動([[新人会]]・[[学生連合会]]など)・[[東方勤労者共産大学|クートヴェ]]留学生・文化運動([[全日本無産者芸術連盟|ナップ]]・[[日本プロレタリア文化連盟|コップ]]など)の出身者のような、党活動の経験に乏しい、いわば「第二線」級の活動家たちによって構成されることになった。この結果、官憲の弾圧に加え、彼らの稚拙な党指導によっていくつもの致命的なミスが引き起され、第二次共産党は崩壊への道を進んでいくことになった。
 
;「武装共産党」と「非常時共産党」
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;スパイの潜入と「リンチ事件」による崩壊
熱海事件後、いわゆる「[[リンチ共産党]]」時代([[1933年]]1月 - 35年5月)の指導部により細々と再建が試みられたが、獄中の佐野・鍋山による転向声明(「[[共同被告同志に告ぐる書]]」)を初めとするによって始まった獄中指導部の崩壊および党員の地滑り的な大量転向を止めることはできず、なかった。一方またスパイの党組織潜入が恒常化し、彼らの密告によって幹部・活動家が次々と検挙され、[[岩田義道]]・[[小林多喜二]]は特高の拷問により虐殺された。スパイ摘発のために行われた[[査問 (日本共産党)|査問]]は、やせ細っていた党組織の内部を疑心暗鬼状態に陥らせますます疲弊させ、結局、行き過ぎた査問の過程で起こった「[[日本共産党リンチ査問事件|リンチ事件]]」([[1934年]]末)による指導部の検挙が、事実上第二次共産党の息の根を止めることになった(正確にいえば指導部の最終的崩壊は、1935年春、ただ一人残っていた中央委員・袴田里見の検挙によるが、リンチ事件以降の党指導部はほぼ機能を停止していた)
 
;その後の党再建運動
リンチ事件による崩壊以後これ以前にソ連に亡命していた[[野坂参三]]・[[山本懸蔵]]による「[[日本の共産主義者へのてがみ]]」に基づき、いくつかの重要な党再建おこなわれあったが、いずれも指導部再建に至る前に検挙により壊滅した。党組織の完全な壊滅は、戦後共産党(あるいは「第三次共産党」)における、[[徳田球一]]・[[志賀義雄]]・[[宮本顕治]]ら「獄中非転向組」の権威を必要以上に高める結果になった。
 
==関連項目==