「フリードリヒ・パンツィンガー」の版間の差分

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[[ミュンヘン]]出身。夜間学校を出た後、警察官に就職した。1933年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の[[突撃隊]](SA)に参加。1937年4月に親衛隊(SS)に移動した。5月にはナチス党への入党が認められた。またベルリン州警察本部の刑事委員会に入る。
 
[[第二次世界大戦]]開戦後の1940年8月には[[保安警察]]代表で[[ブルガリア]]・[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]のドイツ[[公使館]]に勤務。[[親衛隊中佐]](SS-Obersturmbannführer)の階級にあった1941年9月に[[国家保安本部]]IV部([[ゲシュタポ]]部、部長[[ハインリヒ・ミュラー]])のA課(敵性分子排除課(Gegnerbekämpfung))課長となる。ここは[[共産主義]]運動、[[自由主義]]運動、[[サボタージュ]]の取り締まりを監督する課であり、IV部(ゲシュタポ部)の中でももっとも重要な課であった。1943年975日から[[フンベルト・アヒャマー・ピフラダー親衛隊大佐]]([[:de:Humbert Achamer(SS-Pifrader]])Standartenführer)代わって[[アインザッツグルッペン]]A司令官となる。1944年5月6日まで在職した。あわせて1943年9月18日から1944年5月20日にかけて指揮するアインザッツグルッペンが展開するオストラント(東国)・[[リガ]]の[[保安警察及びSD司令官]](Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD、略称BdS)にも任じられている昇進
 
1943年9月5日から[[フンベルト・アヒャマー・ピフラダー]]([[:de:Humbert Achamer-Pifrader]])に代わって[[アインザッツグルッペン]]A司令官となり、9月24日に[[親衛隊上級大佐]](SS-Oberführer)に昇進する。1944年5月6日までアインザッツグルッペンA司令官に在職した。あわせて1943年9月18日から1944年5月20日にかけて彼の指揮するアインザッツグルッペンが展開するオストラント(東国)・[[リガ]]の[[保安警察及びSD司令官]](Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD、略称BdS)にも任じられている。
アインザッツグルッペンの任務を終えた後は[[ベルリン]]の国家保安本部IV部A課課長の仕事に戻った。1944年8月15日に国家保安本部V部([[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察部]])の部長に抜擢される。ここの部長はもともと[[アルトゥール・ネーベ]][[親衛隊中将]]だったが、1944年7月20日に起こった[[ヒトラー暗殺未遂事件]]に関与したことが発覚してどこかへ逃亡したため、空席となっていた。就任早々、捕虜のフランス将軍[[モーリス・メズニー]]([[:de:Maurice Mesny]])殺人事件の捜査にあたることとなった。
 
アインザッツグルッペンの任務を終えた後は[[ベルリン]]の国家保安本部IV部A課課長の仕事に戻った。1944年8月15日に国家保安本部V部([[刑事警察 (ドイツ)|刑事警察部]])の部長に抜擢される。ここの部長はもともと[[アルトゥール・ネーベ]][[親衛隊中将]]だったが、1944年7月20日に起こった[[ヒトラー暗殺未遂事件]]に関与したことが発覚してどこかへ逃亡したため、空席となっていた。就任早々、捕虜のフランス将軍[[モーリス・メズニー]]([[:de:Maurice Mesny]])殺人事件の捜査にあたることとなった。1944年10月14日に[[警察上級大佐]](Oberst der Polizei)の階級が授与される
 
戦後、ソ連軍の捕虜となり、過酷な強制労働に従事させられた。1955年9月にドイツ人捕虜が1万人弱ほど西ドイツへ返還されたが、パンツィンガーもこの際に返還された。西ドイツ帰国後は[[ラインハルト・ゲーレン]]の指揮する西ドイツ諜報部[[BND]]に参加。また信託会社に勤めた。しかし1959年、西ドイツ政府からナチ戦犯として逮捕されて拘禁中に自殺した。