「南朝 (日本)」の版間の差分

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== 長慶天皇と南朝の後退 ==
[[1368年]](正平23年/[[応安]]元年)には後村上天皇が住吉行宮で死去崩御し、同地にて[[長慶天皇]]が即位する。足利政権では有力守護の[[佐々木道誉]]、3代将軍の[[足利義満]]のもとで[[管領]]を務めた[[細川頼之]]などが南朝の楠木正儀と独自に交渉を行っていたが、長慶天皇は北朝に対して強硬的な人物であったと考えられており、和睦交渉は一時途絶し、翌[[1369年]](正平23年/応安2年)に正儀は北朝へ投降する。南朝の征西府[[懐良親王]]も[[菊池氏]]や[[阿蘇氏]]、[[筑後宇都宮氏|宇都宮氏]]の武力を背景に大宰府を有して九州を制圧していたが、[[九州探題]]として赴任した[[今川貞世]](了俊)に駆逐される。その後交渉が再開され、南朝の使者が京都へ赴いている。[[1383年]]([[弘和]]3年/[[永徳]]3年)に長慶天皇は弟の[[後亀山天皇]]に譲位する。なお、長慶天皇は即位していないという説もある。
 
== 南北朝合一 ==