「長尾政景」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Agira (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
22行目:
天文19年([[1550年]])、景虎が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文20年([[1551年]])、景虎の猛攻に遭って降伏した。以後は景虎の重臣として活躍し、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])に家督を捨てて出家しようとする景虎を説得しておし止め、永禄3年(1560年)、春日山城の留守居役に任じられるなど、様々な功を挙げた。
 
永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城近くの[[野尻池]]で溺死した。[[享年]]38。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信自身による暗殺説の命を受け、[[宇佐美定満]]、あるいは[[下平吉長]]による謀殺説などいくつかの説があるが、真相は分かっていない。同船していた家臣([[国分胤吉|国分彦五郎]])の母の後日談では、引き揚げられた政景の遺骸の肩下には傷があったという。彦五郎はこの事件で一緒に死んでいる。家督は早世した長男に代わり、次男の顕景(のちの上杉景勝)が継いだが謙信の養子となったため、山内上杉家と統合された格好で上田長尾家自体は事実上断絶する。
 
{{先代次代|[[上田長尾家|上田長尾家当主]]|長尾政景|[[長尾房長]]|[[上杉景勝|長尾顕景(上杉景勝)]]}}