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'''川勝 隆成'''(かわかつ たかなり、[[万治]]元年([[1658年]]) - [[享保]]4年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[1719年]][[9月26日]]))は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。隆房流川勝家2代の当主。本姓は[[秦氏]]で、[[秦河勝]]の後裔とされる。通称は権九郎、七郎左衛門、文右衛門、伊左衛門。父は[[川勝隆房]]。母は馬淵氏の娘。妻は逸見五右衛門義長の娘。子に[[川勝光隆]](長男)、川勝隆芳(二男、阿部豊後守家臣川勝彌右衛門隆重の養子)、某(三男、式部)、[[川勝隆恭]](四男、実兄である川勝光隆の養子)、娘(長女、宝七郎左衛門富章の妻)、娘(二女、[[川勝広達]]の妻)、娘(三女、水戸家の臣川勝権左衛門某の妻)、他に(四女)一人がいる。
 
[[寛文]]8年([[1668年]])6月6日、初めて将軍[[徳川家綱|家綱]]に謁見した。[[延宝]]6年([[1678年]])3月29日、[[大番]]に列した。[[宝永]]3年([[1706年]])8月19日、父隆房の死去により、その家督([[蔵米]]300俵)を継ぎ、宝永7年([[1710年]])2月27日、[[組頭]]に進んだ。[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])12月23日、蔵米100俵を加えられ、全てで蔵米400俵の禄高となった。[[元禄時代]]([[1688年]] - [[1703年]])を生きた人物。享保4年(1719年)8月13日、[[二条城]]の守衛中に、62歳で没した。法名は了仙。墓所は(京都)誓願寺。家督は男の光隆が継いだ。
 
== 参考文献 ==