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'''川勝 光隆'''(かわかつ みつたか、[[貞享]]2年([[1685年]]) - [[宝暦]]元年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1751年]][[9月5日]]))は、[[江戸時代]]の[[旗本]]。隆房流川勝家3代の当主。本姓は[[秦氏]]で、[[秦河勝]]の後裔とされる。通称は平三郎、勘右衛門。父は[[川勝隆成]]。母は逸見五右衛門義長の娘。妻は岡田五左衛門由重の娘。養子に実弟である[[川勝隆恭]](川勝隆成の四男)に娘(長女、川勝隆盛の妻)、娘(二女、小笠原筑後守持賢の妻)、娘(三女、[[川勝広當 (讃岐守)|川勝讃岐守広當]]の妻)、娘(四女、門奈定之丞直以の妻)、娘(五女、深尾八十郎鼂忠の妻)がいる。
 
[[元禄]]8年([[1695年]])2月28日、初めて将軍[[徳川綱吉|綱吉]]に拝謁した。光隆、時に11歳であった。[[宝永]]6年([[1709年]])4月6日、[[大番]]に列した。[[享保]]4年([[1719年]])11月2日、父隆成の死去により、その家督([[蔵米]]400俵)を継ぎ、享保15年([[1730年]])2月7日に[[組頭]]となった。[[元文]]元年([[1736年]])[[二条城]]の守衛にあって女御御所の造営に携わったため、同年11月2日、黄金2枚を給わり、同年11月4日[[禁裏]]よりも紗綾五巻を拝賜した。[[寛保]]3年([[1743年]])閏4月15日、利根姫(将軍[[徳川吉宗|吉宗]]の養女)の用人に転じ、同年12月21日に[[布衣]]を着る事を許された。[[延享]]2年([[1745年]])、利根姫逝去により、延享3年([[1746年]])3月8日に退職を許され、[[旗本寄合席|寄合]]に列し、同年8月21日に[[船手]]となった。宝暦元年(1751年)7月16日、67歳で没した。法名は瑞翁。墓所は(東京)赤坂の法安寺。家督は養子(実弟)隆恭が継いだ。
 
== 参考文献 ==