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農近 (会話 | 投稿記録)
from en:Karel Reisz 08:29, 14 May 2009 UTC
 
農近 (会話 | 投稿記録)
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| 芸名 = カレル・ライス
| ふりがな = Karel Reisz
| 画像ファイル = Bundesarchiv Bild 183-C0710-0009-013, Karlsbad, Filmfestival, Beyer, Reiss, Brousil.jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像コメント = 中央がライス。1964年の第14回[[カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭]]にて。
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1947年には[[リンゼイ・アンダーソン]]、ギャヴィン・ランバートと共に映画雑誌『シークエンス』を立ち上げ、のちにライスを含むこれら面々が[[フリー・シネマ]]を触発する。はじめての監督作品『Momma Don't Allow』は[[トニー・リチャードソン]]と共同監督をつとめ、これが1956年2月にロンドンの国立映画劇場で公開されたフリー・シネマの最初の上映プログラムに加えられた。1958年の作品『We Are the Lambeth Boys』は、ロンドンのユースクラブを舞台にした映画で、タバコ、クリケット、絵画やディスカッションといったグループに参加する青年らの姿を自然主義的に描写した。映画は当年の[[カンヌ国際映画祭]]のイギリス代表作品となり、また、1985年に[[英国放送協会]]が、同作で取りあげた人々のその後を追った映画を製作した。
 
1960年、アラン・シリトーの小説を原作とした『土曜の夜と日曜の朝』で長編映画をはじめて手がける。先に製作したドキュメンタリー映画の手法を多く用い、その評価は[[英国アカデミー賞]]最優秀イギリス映画賞の受賞といったかたちで表れた。さらに、リンゼイ・アンダーソン監督映画『孤独の報酬』に製作として参加。コメディ映画『モーガン』、[[イサドラ・ダンカン]]の伝記映画『裸足のイサドラ』、そのほか『熱い賭け』『ドッグ・ソルジャー』でメガホンをとる。また、

1981年の監督作品『フランス軍中尉の女』は[[ジョン・ファウルズ]]の原作を[[ハロルド・ピンター]]が脚本化した『フラン、キャ軍中尉の女』ではトを[[ジェレミー・アイアンズ]]、[[メリル・ストリープ]]が出演つとめた同作は[[アカデミー賞]]、英国アカデミー賞、[[ゴールデングローブ賞]]など主要な映画賞を賑わせる結果となり、ライスの後年のキャリアにおいて最も成功した作品となった。その後、パッツィ・クラインの半生を扱った『ジェシカ・ラングのスウィート・ドリーム』、[[アーサー・ミラー]]が自ら戯曲を脚本化した『もうひとつのラブストーリー』で監督をつとめた。
 
=== 私生活 ===
ライスは生涯2度の結婚をした。最初の妻、ジュリア・コッパードとのあいだに3人の子供をもうけたのちに離婚。1963年、かつて[[ジーン・ケリー]]の妻であったベッツィ・ブレアと結婚し、死別するまで連れ合った。
 
2002年にロンドン、カムデンで死去。