「骨法 (格闘技)」の版間の差分

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[[野見宿禰]]と[[当麻蹴速]]の対決が、現在の[[相撲]]と違い、激しい蹴り合いであったことを、[[古代]]より日本に[[拳法]]が存在した証拠とし、ここから相撲の起源であるとしている。[[奈良時代]]の[[神亀]]3年に[[志賀清林]]によって「突く・殴る・蹴る」の三手が禁じ手にされたといわれ、一般的には古代の相撲の異称とされる「[[手乞]]」は禁じ手制定以前の、この[[武術]]の呼称であるとしている。純粋な武術を「手乞」・武術を応用した医療行為が「骨法」とする主張もある。
 
また、[[藤原宗忠]]の日記である『[[中右記]]』に「相撲が強いと言われているが、もっと骨法を身に付けなければ・・・」との意味の文章で[[源義家]]の家臣・[[大宅光房]]に対する批評を書いているが、これは「相撲が強いと言われているが、もっと基本を身に付けなければ・・・」と解釈されてう意味であるが、堀辺はこの記述を骨法という武術の存在を証明するものと主張している。
 
その後、[[源義光]]([[源義家]]の弟)が衰退していた骨法を復興し、彼の子孫に[[一子相伝]]で継承され、現在に至るものとしている(堀辺家は[[源義光]]の末裔と称する)。骨法のうち、堀辺家伝のものは司家骨法と称したとする。
 
ただし、堀辺は伝承された技をより実戦的に改良し、自ら流派の創始者を名乗っている。最初、家伝の武術の名称を「換骨術」としており、[[大東流合気柔術]]の佐川道場(堀辺は一時期、大東流の[[佐川幸義]]の弟子だった)から[[吉丸貞雄]]と一緒に独立<ref>[[高橋賢 (武道史研究家)|高橋賢]]『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』 福昌堂 2007年</ref>した後に「換骨拳」と改称し[http://homepage2.nifty.com/aiki-rentai/newpage3.html]、さらにその後に「骨法」に改称していることから、堀辺家伝と称する武術が当初から「骨法」という名称であったとは考えにくい。<BR>
また、堀辺が主張する骨法の伝承も、[[神道天心流]]の[[上野貴]](当身技主体の武術を「骨法」と称していた)の上野家伝の武術の開祖を大伴古麻呂とする伝承と、堀辺は一時期学んだ[[大東流]]の源義光の伝承を折衷した印象がある。
 
 
堀辺によると、大伴古麻呂は「徹し」(とおし)とよばれる秘技を用いたという。これは中国拳法の浸透勁に似たものとされるが、古麻呂以後失伝しており、[[堀辺正史]]が現代に甦らせたと主張し、「喧嘩芸骨法」とう名称で指導した。しかし、[[バーリトゥード]]・ルールの試合で門弟が惨敗した後は、これまでの「当身技主体の武術」という主張を翻し、[[寝技]]が中心の内容が真の古伝だと主張し「日本武道傳骨法」という名称に変更した
 
==骨法と称する他流派==
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