「アンリ・ギザン」の版間の差分

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だが、翌年に入るとモッタが急死し、続いて[[イタリア]]がナチス・ドイツ側に参戦し、[[フランス]]が降伏した([[オーストリア]]は既にドイツに併合されている)ため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、ドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。
 
[[1940年]][[7月25日]]、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地である[[リュトリ]]に集めて演説を行い、スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を引き継いであくまでも国を守ってゆく事を誓ったのである(「'''リュトリ演説'''」)。<br>ギザンの言葉演説は以後、スイスの国民に広く伝わり、以後ドイツ側への参加を公然と唱えるものは少なくなった。だが、経済的理由から、「ドイツ側への配慮」に動く行政側(それが、[[ユダヤ人]]の入国拒否問題やナチスが不当に得た資産の[[マネーロンダリング]]容認いった事実として後に発覚する)とあくまでも両陣営何れに対しても加担すべきではないとするギザンとの間に不協和音となって現れた。<br>だが、ギザンの徹底的な防衛戦略と国民からの支持を背景にギザンの「武装中立」路線の根本は揺らぐ事はった。
 
やがてドイツが降伏してギザンはその役目を終え、静かに引退生活に入ったという。
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