「日英博覧会」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1902年]]に結ばれた[[日英同盟]]の下、三年あまりの準備期間を経て1910年5月14日から10月29日に開催された。とくに[[1908年]]から、外務大臣に就任した[[小村寿太郎]]の強力な後押しがあったといわれている。しかし5月6日に当時、[[1904年]]の[[セントルギリ博覧会]]の成功が、[[エドワド7世 (イギリツマ王)|エドワード七世条約]]が急逝し、全英が喪の締結服したために開催が危ぶまれた。このと開会式は中止され、新聞どが祝祭的な記事の報道意味自粛したために、残され持っていたと考え記事は少ない。政府関係者が多く<ref>*{{cite journal|
|title=国際関係史から見た万国博覧会 : 一九〇四年セントルイス万国博覧会を中心に
|author=楠元 町子
|journal=法政論叢
|volume=43
|issue=2
|pages=pp.22-38
|year=2007
|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006343461
}}</ref>、国際博覧会は重視されていた。
 
しかし5月6日にイギリス国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード七世]]が急逝し、全英が喪に服したために開催が危ぶまれた。このとき開会式は中止され、新聞などが祝祭的な記事の報道を自粛したために、残されている記事は少ない。
 
日本側は開催に際して、208万円の費用を注ぎ込み、会場に置ける敷地面積はそれまでに参加した博覧会を凌ぐ、22,550m<sup>2</sup>に及んだ。