「甲斐親直」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Undo revision 22590609 by ポテンシャル0 (会話)
編集の要約なし
20行目:
 
宗運の晩年は1582年の[[本能寺の変]]に始まり、[[山崎の戦い]]・[[賤ヶ岳の戦い]]と天下人の座が決しようとしていた時期であった。戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、[[矢部]](阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。
しかし宗運死後の1585年、嫡男・[[甲斐親英|親英]]は島津方が築いた[[花の山城]]を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになった。親英は早々に降伏。わずか2歳の阿蘇家当主・[[阿蘇惟光|惟光]]は島津氏に降伏したのち、母親に連れられて逃走し、戦国大名としての阿蘇氏は滅亡した。
 
== 宗運毒殺説 ==
宗運は嫡男[[甲斐親英|親英]]の娘、つまり宗運の孫娘によって毒殺されたという説がある。この説の真偽を考察する際には、宗運の親族に対する非情な処断を考慮する必要がある。
 
[[阿蘇氏|阿蘇家]]への忠節を頑ななまでに貫いた宗運は、主家を裏切ろうとする者、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、[[日向国|日向]]の[[伊東義祐]]への接近を試みた二男[[甲斐親正|親正]]、三男[[甲斐宣成|宣成]]、四男[[甲斐直武|直武]]をことごとく誅殺し、さらにこれに反発して宗運の排除をもくろんだ親英までも手にかけようとする。いかに戦国の世とはいえ、我が子を一度に4人も殺害しようというのはきわめて苛烈な処断といえよう。