「カール・ルエーガー」の版間の差分

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ルエーガーは、[[ロスチャイルド家]]などウィーン経済を支配する[[ユダヤ資本]]に対して市民の間に高まりつつあった反感を巧みに利用し、激しいユダヤ人攻撃をおこなって、[[1895年]]以来3度にわたって選挙に勝利を重ね、市長に選出された。しかし、その都度、皇帝フランツ・ヨーゼフの拒絶にあっている。しかし、4度目の市長選出にあたっては、ついに皇帝もこれを認めざるをえなくなり、[[1897年]][[4月20日]]、ウィーン市長となった。
 
市長となってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、ルエーガーにとってそれは単なる[[選挙戦術]]だったという見方もある。現に当選後は「誰がユダヤ人かは私が決める」と言い放ち、ユダヤ人の貧困層に対しての救済措置も盛んに行った。しかし、その演説は若き[[アドルフ・ヒトラー]]に多大な感化を与えており、カール・ショースキーはかれを「ウィーンの自由主義にとどめを刺した人物」<ref>カール・ショースキー『世紀末ウィーン』(1981)日本語版は[[安井琢磨]]訳で[[岩波書店]]</ref>として厳しい評価を与えている。ヒトラー自身もルエーガーを、[[ゲオルク・フォン・シェーネラー]]とならんで「わが人生の師」と呼んでいる。ヒトラーは、のちにルエーガーの人種政策が中途半端だから帝国統一が果たせなかったのだとしている。
 
こうした半面、ウィーンの[[ガス燃料|ガス]]、[[水道]]、[[電気]]など[[公共施設]]の拡充に尽力してそれを市営化し、市外電車を設立、[[教育]]事業を拡大したり、[[福祉]]設備を建てるなどの都市整備をおこない、ウィーンの大都市化と都市生活の近代化に貢献した。党が保守化して[[民族主義]]的になる一方、かれ本人は民族融和主義の考えを述べたこともあり、帝国改革の考えももっていたとされる。