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'''平 景隆'''(たいら の かげたか、生年不詳 - [[文永]]11年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]([[1274年]][[11月14日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の九州の武士。通称は内佐衛門。'''平経高'''、'''平景高'''とも。
 
[[壱岐国]]の[[守護代]]として[[文永の役]]にあたる。壱岐の[[守護]]は[[少弐氏]]で、景隆はその[[家人]]であったと思われる。『[[八幡愚童訓]]』によれば、文永11年(1274年)10月14日の申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が[[壱岐島]]の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて迎え撃ち、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて合戦となる。しかし大勢で押し寄せ矢が二町(約216m)ほども射程がある蒙古軍にかなうはずもなく、景隆らは[[守護所]]の詰城である樋詰城に立て籠もって防戦した。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を包囲し攻め立てた。景隆一同は城中で自害し、下人の宗三郎を[[大宰府]]の守護のもとに派遣して状況を報告せた。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。
 
[[明治維新]]後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、[[刀伊の入寇]]、[[弘安の役]]の戦死者とともに[[新城神社]]([[長崎県]][[壱岐市]][[勝本町]])に祀られた。[[明治]](1886年)19年11月2日、正四位を追贈された。