「朝倉文夫」の版間の差分

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[[1907年]](明治40年)、[[卒業制作]]として「進化」を発表し研究科へと進み谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また[[文部省]]が美術奨励のために開いていた第2回[[文展]]に『闇』を出展し、最高賞である2等となり翌年も「山から来た男」で3等を得るが、欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で2等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた)。
 
[[1910年]](明治43年)、最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の[[荻原守衛碌山]]の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち突如南洋の[[シンガポール]]、[[ボルネオ]]の視察へと旅立つ(後に文夫が著書『航南瑣話』(東和出版社、[[1943年]](昭和18年))で語ったところによれば、この旅行は[[井上馨]](当時文夫は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の文夫に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第8回文展まで連続上位入賞を果たし、第10回文展においては34歳の若さで最年少審査員に抜擢されるほどであった。
 
[[1921年]]([[大正]]10年)に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された[[高村光太郎]]と並んで日本美術界の重鎮であった。[[1924年]](大正13年)に[[帝国美術院]]会員となるが[[1928年]](昭和3年)にこれを辞し、[[1934年]](昭和9年)にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る(後の[[朝倉彫塑館]])。[[1935年]](昭和10年)、再度帝国美術院会員、[[1937年]](昭和12年)、[[帝国芸術院]]会員。[[1944年]](昭和19年)美に校教授を辞し[[帝室技芸員]]、従三位、[[勲四等]][[瑞宝章]]受章。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまう(原型は300点余が残された)。