「アンリ・ギザン」の版間の差分

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'''アンリ・ギザン'''('''Henri Guisan''', [[1874年]][[10月21日]]-[[1960年]][[4月8日]])は、[[スイス]]の[[軍人]]。[[第二次世界大戦]]下の非常事態下において軍の最高司令官となり、事実上のスイスの最高指導者となった。
 
[[1939年]]8月、[[ナチス・ドイツ]]と[[ポーランド]]の関係が急速に悪化して戦争が避けられない情勢となると、[[ジュゼッペ・モッタ]]ら当時の連邦政府指導部は連邦議会とともに8月30日に武装中立と非常事態を宣言、政府と議会の代表からなる委員会に全権が委任された。委員会はヴォー州出身の[[フランス系]]軍人であるアンリ・ギザンを軍の最高司令官に任命を選出して、臨戦態勢を整えた。ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には平野部を放棄して[[アルプス山脈]]に要塞を築いて徹底抗戦する計画を立案した。最高43万人の民兵が動員されてスイス国内は「ハリネズミ」と評されるほどの一大防衛体制が取られた。
 
だが、翌年に入るとモッタが急死し、続いて[[イタリア]]がナチス・ドイツ側に参戦し、[[フランス]]が降伏した([[オーストリア]]は既にドイツに併合されている)ため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、ドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。
 
[[1940年]][[7月25日]]、ギザンは主だった軍の幹部・将校を建国伝説ゆかりの地である[[リュトリ]]に集めて演説を行い、スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を引き継いであくまでも国を守ってゆく事を誓ったのである(「'''リュトリ演説'''」)。<br>ギザンの演説は以後、スイスの国民に広く伝わり、以後ドイツ側への参加を公然と唱えるものは少なくなった。

ところが戦争の長期化とともに経済的理由から、「ドイツ側への配慮」に動く行政側(それが、[[ユダヤ人]]の入国拒否問題やナチスが不当に得た資産の[[マネーロンダリング]]容認といった事実として後に発覚する)とあくまでも両陣営何れに対しても加担すべきではないと考えて、ドイツ側の工作員として働いたスイス人に対して死刑を含めた厳しい処置で臨むギザンとの間に不協和音となって現れた。<br>だが、ギザンの徹底的な防衛戦略と国民からの支持を背景に、彼の「武装中立」路線の根本は揺らぐ事はなかった。
 
やがてドイツが降伏してギザンはその役目を終え、静かに引退生活に入ったという。