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[[ファイル:NUMANTIA1.jpg|thumb|240px|ヌマンティアの遺構]]
'''ヌマンティア戦争'''(ヌマンティアせんそう、[[英語]]:Numantine War)は、[[ヒスパニア]]内陸の[[ケルティベリア人]]が、[[紀元前153年]]から[[紀元前133年|前133年]]まで、[[古代ローマ|共和政ローマ]]と戦った[[戦争]]である。この戦争の結果、ケルティベリア人の抵抗拠点となったヌマンティア市が破壊され、ローマの支配が浸透した。'''第二次ケルティベリア戦争'''とも言う。この戦争の期間中、ヒスパニアの西側では[[ルシタニア戦争]]が続いていた。
 
== 開戦まで ==
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== 戦争の経過 ==
=== ノビリオルの戦役(前153年) ===
紀元前153年に、ローマはクィントゥス・フルウィウス・ノビリオル(Quintus Fulvius Nobilior)の指揮のもとに約3万の兵力をヒスパニアに送った。セゲダの城壁はまだ完成していなかったため、セゲダ人は町を引き払って同じケルティベリア人であるアレワキ人のもとに逃げた。アレワキ人は同盟を承諾し、カルスを将軍に選んだ。
 
将軍選出の三日後に、カルスは2万の歩兵と5千の騎兵をもって待ち伏せを行ない、行軍中のローマ軍を攻撃して破った。追撃中のカルスは、補給部隊を護衛していたローマ騎兵と遭遇し、戦死した。その当夜、アレワキ人はヌマンティアに集まってアンボとレウコを将軍に選んだ。
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ノビリオルは騎兵将校ビエシウスを派遣して周辺の友好部族から騎兵を集めさせたが、ビエシウスも待ち伏せされて戦死した。相次ぐ敗報に、ローマの補給倉庫があったオキリスの町がケルティベリアについて反乱した。ノビリオルは行動継続を断念して冬営したが、物資の不足で多数の犠牲を出した。
 
=== マルリウスの戦役(前152年) ===
翌[[紀元前152年|前152年]]に、ローマの指揮官はクラウディウス・マルリウスに交代した。マルリウスは、ケルティベリア軍の待ち伏せ攻撃を退け、オキリス攻囲の陣を張った。オキリスは戦闘が始まる前に降伏した。
 
オキリスの寛容な扱いを聞いたネルゴブリゲ人は、マルリウスに和議を申し入れたが、交渉中に一部のネルゴブリゲ人がローマ軍の補給隊を襲撃した。マルリウスは和平派のネルゴブリゲ人を捕らえて鎖につないだ。和平派は事件について釈明したが、マルリウスのもとには、ローマに忠実な部族がおり、彼らはネルゴブリゲ人と争っていたため、和平を望まなかった。マルリウスは両派のヒスパニア人使節をローマに送った。ローマの[[元老院 (ローマ)|元老院]]は戦争継続を決定した。
 
司令官交代までの間に、マルリウスはヌマンティア近郊まで進軍して、ケルティベリア人と講和した。
 
=== ルクッルスの戦役(前151年) ===
[[紀元前151年|前151年]]に、執政官リキニウス・ルクッルスがヒスパニアに着任してマルリウスに代わった。彼は副官にコルネリウス・スキピオ([[スキピオ・アエミリアヌス]]を伴った。ルクッルスは戦争の継続を望み、直前の戦争と無関係のワッカエイ人の土地に侵入した。ルクッルスはカウカ市に攻撃をしかけ、講和を求めたカウカに対し、町の中に兵士を駐屯させることを要求して認められた。ルクッルスは兵士をカウカに入れると、和約を破って市民のほとんどを殺し、町を略奪した。
 
次いでルクッルスはインテルカティアの町を攻撃した。インテルカティアは長く抵抗し、壁が破壊されてもローマ軍を撃退した。食糧が不足したため、ルクッルスはインテルカティアから物資の供給を受けるという条件で和議を結んだ。その後ローマ軍はパランティアを攻撃したが、得るものなく帰還した。
 
=== メテッルスの戦役(前143年) ===
ケルティベリア人はこうして独立を保持したが、ローマ領に侵入することはなかった。[[紀元前143年|前143年]]に、[[クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス]]がローマ軍を率いて突如ケルティベリアに侵入すると、アレワキ人はやむなくローマに従った。残る有力都市は、ヌマンティアとテルマンティアであった。
 
===ポンペイウスの戦役と講和交渉(前141年 - 前140年) ===
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=== マンキヌスの戦役(前137年) ===
後任の ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスは、[[紀元前137年|前137年]]に[[ティベリウス・グラックス]]らを従えてヌマンティア攻略に向かったが連戦連敗を喫した。マンキヌスは陣営を撤収させようとしたが、町の近くでこれに気付いたヌマンティア軍はマンキヌスの軍を撃破し、町の近くで包囲された。マンキヌスはヌマンティアとローマを対等にする条件で和約を結び、引き上げた。
 
ローマ元老院はこの和約に怒り、同僚の執政官マルクス・アエミリウス・レピドゥス・ポルキナを派遣してマンキヌスに替わらせた。
 
=== アエミリウスの戦役(前136年) ===
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マンキヌスとヌマンティアの和約を審議した元老院は和約を破棄し、かわりにマンキヌスをヌマンティアに引き渡すことを決めた。ヌマンティア人は引き取りを断った。
 
ローマの司令官はクィントゥス・カルプルニウス・ピソとなり、ヌマンティアとの戦争を継続することになった。しかしピソはヌマンティアに対して軍事行動を起こさなかった。パランティア近郊を略奪し、その後はカルペンタニアに軍を留めて任期を終了した。
 
=== スキピオの戦役(前134年 - 前133年) ===
最初の戦いから20年近くたった[[紀元前134年|前134年]]に、アフリカヌスのあだ名を持つ[[スキピオ・アエミリアヌス]]がピソの後任となった。小スキピオは、従属国の派遣部隊と庇護民と友人で友人部隊という私兵を作り、ヒスパニアに駐屯する正規のローマ軍への増援とした。スキピオは軍の訓練をやり直してから遠征に乗り出した。
 
スキピオはヌマンティアの近くに陣営を置き、付近の野に種をまいて穀物を収穫した。それから略奪遠征に乗り出し、ヌマンティア近郊とワッカエイ人の土地を荒らして食糧不足に陥れようとした。スキピオは遠征軍をもってパランティア人の待ち伏せをやり過ごし、ルクッルスが騙し討ちにしたカウカエイ人と和を結んでから、陣営に帰り、冬営に入った。冬営中に、ヌミディアから[[ユグルタ]]が12頭の象と弓兵と投石兵を率いて援軍に来た。スキピオは冬の間も略奪遠征を繰り返した。
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== 戦争の性格 ==
ヌマンティア戦争は、20年間もの間、ローマの侵攻とそれに対するケルティベリア人の抗戦という形で続いた。[[アッピアノス]]の記述にみるかぎり、ケルティベリア人に対するローマの侵略と撃退という展開がえんえんと繰り返されていた。
 
ローマに確固たる戦争目的はなかった。ケルティベリア人はおおよそローマの優越性を承認しており、ローマもそれ以上のことを要求していなかったのだから、戦争の原因は両者の要求の齟齬ではない。アッピアノスが言うように、現地の司令官や、本国ローマの世論の栄光と略奪への欲望が、戦争の主要な動機であったと考えられる。
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== 参考文献 ==
{{commonscat|Numancia|ヌマンティア}}
* [[アッピアノス]] 『ローマ史』「イベリカ」
* [[プルタルコス]] 『英雄伝』
 
[[Category{{DEFAULTSORT:古代ローマの戦争|ぬまんていあせんそう]]}}
[[Category:共和政ローマの戦争]]
[[Category:スペインの歴史]]
 
[[en:Numantine War]]
[[es:Guerra Numantina]]
[[fr:Guerre de Numance]]
[[he:מלחמת נומנטיה]]