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m ジャパン・オープン・テニス選手権
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[[1976年]]にプロ入り。[[1979年]]当時の[[1979年全豪オープンテニス|全豪オープン]]は、オーストラリア・[[メルボルン]]市内にある「クーヨン・テニスクラブ」で年末の12月に開催され、男子シングルスも64名の出場選手による6回戦制で行われていた。この大会で、サドリは第6シードから決勝まで勝ち上がったが、大会前年優勝者の[[ギレルモ・ビラス]]に 6-7, 3-6, 2-6 のストレートで敗れて準優勝に終わった。翌[[1980年]]の[[1980年全豪オープンテニス|全豪オープン]]では、サドリは準々決勝でビラスと顔を合わせ、ここでも 5-7, 4-6, 6-2, 6-4, 3-6 で敗れた。先にビラスが2セットを先取した後、サドリは第3・第4セットを連取して2セット・オールに追いついたが、結局最終第5セットを 3-6 で落とし、前年度の決勝の雪辱はならなかった。
 
ジョン・サドリはその後も、[[1981年全豪オープンテニス|1981年]]・[[1982年全豪オープンテニス|1982年]]の2年連続で全豪オープン男子ダブルスの準優勝があった。パートナーはそれぞれ異なり、1981年は[[ハンク・プフィスター]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])と、1982年はアンディ・アンドリュース([[アメリカ合衆国|アメリカ]])と組んだ。プフィスターと組んだ[[1981年全豪オープンテニス|1981年]]は、地元[[オーストラリア]]ペアの[[マーク・エドモンドソン]]&[[キム・ウォーウィック]]組に 3-6, 7-6, 3-6 で敗れ、アンドリュースと組んだ[[1982年全豪オープンテニス|1982年]]は[[ジョン・アレクサンダー]]&[[ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)|ジョン・フィッツジェラルド]]組に 4-6, 6-7 で敗れた。[[1982年]]のシーズンに、サドリとアンドリュースは2つのダブルス・タイトルを獲得している。
 
サドリの[[全豪オープン]]以外の4大大会成績は、[[1984年]]の[[1984年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でベスト8がある。この準々決勝で、サドリは第1シードの[[ジョン・マッケンロー]]に 3-6, 3-6, 1-6 で完敗した。サドリがまだ学生テニス選手だった頃、マッケンローとは[[全米大学体育協会|NCAA]]テニス選手権で対戦したことがあるが、ウィンブルドンではもはや学生時代のライバルに歯が立たなくなっていた。[[1987年ウィンブルドン選手権|1987年ウィンブルドン]]2回戦敗退の後、サドリは7月に31歳で現役を退いた。