「江田船山古墳」の版間の差分

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== 被葬者 ==
[[1873年]]([[明治]]6年)の発掘以来、鉄刀に刻まれている銀象嵌の銘文にある「獲□□□鹵大王」は、'''獲'''を「蝮(たじひ)」、'''鹵'''を「歯」と読んで、[[反正天皇]](多遅比瑞歯別尊)と長い間推定されてきたが、埼玉県[[行田市]][[稲荷山古墳]]から出土した[[金錯銘鉄剣]]の発見により、「獲加多支鹵大王」と同じ大王であり、「ワカタケル大王」と読めることが分かった。ワカタケル[[大王 (ヤマト王権)|大王]]は、[[雄略天皇]]に比定されている。被葬者ムリテは雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人」として仕えた。また、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首」として仕えた。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。
 
== 副葬品 ==