「リヨンの反乱」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m bot:WP:STY - 半角中黒の全角への修正 |
→その後: リヨンに名前が戻った時期 |
||
76行目:
また、この大虐殺を指導した[[派遣議員]]のフーシェ、コロー・デルボワは、パリから出頭を命じられた。虐殺が過激すぎるものとして、ロベスピエールの怒りを買ったためである。派遣議員の中には、トゥーロンへ派遣された[[ポール・バラス|バラス]]や[[ルイ=マリ・スタニスラ・フレロン|フレロン]]、[[ボルドー]]へ派遣された[[ジャン=ランベール・タリアン|タリアン]]など、彼らと同様に過酷な報復が咎められる者が多かった。これを理由に処刑されることを恐れた派遣議員達は、フーシェの首謀する反ロベスピエールの陰謀に加担した。やがてこの動きが[[テルミドールのクーデター]]へとつながるのである。
クーデター後の1974年10月7日、都市名はリヨンに戻された。
==注釈・参考文献==
|