「アルブレヒト・アヒレス (ブランデンブルク選帝侯)」の版間の差分

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[[画像:Albrecht AchillesIII, Elector of Brandenburg.jpg|thumb|180px150px|アルブレヒト・アヒレス]]
[[画像:Albrecht Achilles.jpg|thumb|150px|アルブレヒト・アヒレス]]
[[画像:Albrecht Achilles Gripsholm.JPG|thumb|250px|アルブレヒト・アヒレスと妃アンナ]]
'''アルブレヒト1世アヒレス・フォン・ブランデンブルク'''または'''アルブレヒト・アヒレス'''('''Albrecht (I) Achilles''', [[1414年]][[11月9日]] [[タンガーミュンデ]] - [[1486年]][[3月11日]] [[フランクフルト・アム・マイン]])は、[[ホーエンツォレルン家]]の[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク選帝侯]](在位:[[1470年]] - 1486年)。
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[[1460年]]にアルブレヒトは、 [[アンスバッハ]]を宮廷所在地と定め、[[1469年]]にはゼッケンドルフの[[レーエン]]であったトリースドルフを獲得した。トリースドルフは、後にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯の狩り場となる。
 
[[ファイル:Albrecht Achilles copper engraving.jpg|left|thumb|150px|アルブレヒト・アヒレス]]
[[1486年]]、[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]を王として選出することとなる、フランクフルトでの帝国会議で、アルブレヒト・アヒレスは重い病に倒れた。アルブレヒトは、帝国会議の重責を担ったまま1486年3月11日に、この地で亡くなった。同年6月19日に彼は[[ハイルスブロン]]の修道院教会に葬られた。