「ジョージ・マクレラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
24行目:
南北戦争の初期、マクレランは北軍の部隊を訓練して育てる重要な役割を演じた。しかし、マクレランは計画と準備においては綿密であったが、この彼の特徴は、動きの速い戦場の環境で攻撃してくる敵軍に対して挑戦する彼の才能を妨げた。彼はナポレオン時代に比べて兵器が進歩し攻撃側が著しく不利になったことを知っていたため、無謀な総突撃をしようとはしなかった。それが幸いして、ほとんどの将軍が幾度となく敗れた[[ロバート・E・リー]]将軍に、勝利または大損害を与えることができた。
 
[[1862年]]のマクレランの[[半島方面作戦|半島戦役]]ではリー将軍のより小規模な軍隊に、自軍より多くの損害を与えることに成功したが、当初の目的であった[[アメリカ連合国|連合国]]首都の[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]を占領する計画は放棄せざるをえなかった。凄惨な[[アンティータムの戦い]]での彼の活躍は、リー将軍によるメリーランドへの侵略を阻止したが、兵力の不利を有利な地形でカバーするリー相手には、同程度の損害を与えただけで北バージニア軍を壊滅させることはできなかった。ただ、これはリーと戦った北軍の将軍が、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたことからすれば、極めて健闘したと言える。しかし結果として、戦闘中のマクレランのリーダーシップは、[[エイブラハム・リンカーン]]合衆国大統領に疑問視され、最終的に彼はまず最高司令官を解任され、次にポトマック軍の指揮官職から解任された。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も有名な司令官であった。
 
マクレランはリンカーンの信頼を維持することにも失敗し、苛立たしいほどに最高司令官に服従しなくなった。解任された後、マクレランは[[1864年]]の大統領選挙でリンカーンと争う[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の指名候補になって、敗れた。民主党は戦争の終結と連合国との交渉を公約した反戦の政治要項を掲げたが、マクレランは彼の戦役の有効性へダメージがあるとしてこれを否定せざるを得なかった。彼は[[1878年]]から[[1881年]]まで第24代ニュージャージー州知事を務めた。彼は最終的には作家になり、半島戦役と南北戦争の間の自らの行動を擁護した。