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'''岩崎 昶'''(いわさき あきら、[[1903年]][[11月18日]] - [[1981年]][[9月16日]])は[[映画評論家]]で[[映画製作者]]。[[啓蒙]]的批評家・「の一人であり[[左翼]]陣営の戦闘的映画人と目されるがスポーツマンで良き家庭人であったという。
 
== 来歴・人物 ==
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1929年、[[日本プロレタリア映画協会]](プロキノ)に参加する。1934年に当局の圧力により解散させられた時に委員長であった岩崎は翌年[[上海市|上海]]に渡る。岩崎の映画批評を[[魯迅]]が翻訳した事が契機とされているがこの大陸行きについては幾つかの謎は残っている。([[村上もとか]]の「RON 龍」での主人公が魯迅の行方を探す場面はこれからインスパイアされていると推察される)
 
1940年1月、[[唯物論研究会]]事件で[[治安維持法]]による逮捕、入獄するが未決拘留の蒸し返しのまま翌年2月に保釈。この際に転向したとされるが、この事件は国家統制を目的とした[[映画法]]に岩崎がただ一人だけ反対したことにより懲罰的に拘禁したという事実が隠されている。かつての左翼陣営の英雄児に映画界が背を向けた中で[[満州映画協会]]の[[根岸寛一]]は[[甘粕正彦]]の許可を得た上で東京支社の嘱託として迎えている。岩崎は生涯の恩人として甘粕・根岸への敬意を持ち続けたという。
 
1946年に[[日本映画社]]の製作部長に就任したが「日本の悲劇」、「Effects of the Atomic Bombs」の製作にたずさわった事が今度は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の実質的なパージにかかる。1950年、独立プロの[[新星映画社]]を[[今井正]]、[[山本薩夫]]、[[山形雄策]]らと作り「どっこい生きている」「真空地帯」「ここに泉あり」などで日本映画の良心を守り続けた。