「高階貴子」の版間の差分

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[[和歌]]を能くし、女ながらに詩文に長けた由、『[[大鏡]]』など諸書に見える。[[円融天皇|円融]]朝に[[内侍]]として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどであった。おなじ頃、中関白[[藤原道隆]](953 - 995年)の妻となり、[[内大臣]]伊周(974 - 1010年)・[[中納言]][[藤原隆家|隆家]](979年 - 1044年)・[[僧都]][[隆円]](980 - 1015年)の兄弟及び長女[[藤原定子|定子]]を含む三男四女を生んだ。
 
夫・道隆が[[永延]]3年([[989年]])に内大臣、[[永祚 (日本)|永祚]]2年([[990年]])5月に[[関白]]、次いで[[摂政]]となり、10月に定子が[[一条天皇]]の[[中宮]]に立てられたため、[[正暦]]元(990)1010月26日、従五位上から正三位に昇叙。一方、貴子腹の嫡男伊周も急速に昇進し、[[正暦]]3([[992年]])十九歳にして権大納言に任ぜられ、翌々年さらに内大臣に昇ったため、貴子は末流貴族の出身ながら関白の嫡妻、かつ中宮の生母として栄達し、高階成忠は従二位と[[朝臣]]の姓を賜った。
 
ところが、[[長徳]]元年(995)4月10日に夫・道隆が病死すると、息子の伊周と隆家は叔父[[藤原道長|道長]]との政争に敗れ、権勢は瞬く間に道長側に移った。翌年になって、伊周と隆家は、[[花山天皇|花山院]]に矢を射掛けた罪([[長徳の変]])によって大宰権帥・[[出雲国|出雲]]権守にそれぞれ左降・配流。貴子は出立の車に取り付いて同行を願ったが、許されなかった。その後まもなく病を得て、息子の身の上を念じながら、同年10月末に薨去した。四十代であったと推定される。
 
「中の関白かよひそめ侍りける頃」詠んだという次の和歌が[[小倉百人一首]]に採られて有名である。