「ウィリアム・バード」の版間の差分

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[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]と[[メアリー1世]]の[[テューダー朝]]の時代に王室礼拝堂の音楽家であったトマス・バードの子供として生まれ、王室礼拝堂少年聖歌隊の一員として[[トマス・タリス]]から音楽を学んだとされる。バードの名前が公式記録として現れるのは、1563年に[[ロンドン]]北部にあるリンカン主教座聖堂オルガニスト兼聖歌隊長として赴任したという記述からである。1572年には王室礼拝堂オルガニストとなり、トマス・タリスと同僚となった。2人は[[エリザベス1世]]の手厚い保護を受けた。ところが[[イギリス国教]]と[[カトリック]]が混在する時代にあって、カトリック教徒であったバードは弾圧から逃れるため1570年代にロンドンから[[ハーリントン]]に移住した。国教を拒否したカトリック教徒に対する弾圧は1580年から更に強化され、1585年には国教忌避者リストにバードが記載されるようになった。その後、バードは弾圧を避けるため、カトリック教徒であったジョン・ピーター卿(1549年 - 1613年)の保護を受け、[[エセックス]]のスタンドン・マッシーで晩年を過ごした。しかし、バードは、王立礼拝堂のメンバーであり続け、1619年のアン王女の葬送式に参加した記録がある。
 
バードは、カトリック教徒であると同時にエリザベス1世の王立礼拝堂楽員であったため、その音楽は英国国教会のために作曲され、英語による「グレート・ザーヴィスGreat Service」は、最も優れたイギリス国教会音楽のひとつであると評価されてわれる。しかしバードの声楽曲の最高傑作は、国教会のイギリスにおいてカトリックの信仰を貫いたバードの信念が感じられる[[ラテン語]][[ミサ曲]]や[[モテット]]であると言われる。特に、3声、4声、5声の3曲のラテン語ミサ曲がとりわけ有名は、ルネサンス音楽全体の中でも傑出した作品である。また、器楽曲では、[[ヴィオール]]による小規模な合奏のためのファンタジアやヴィオールを伴奏に持つ歌曲が名高い。
 
[[Category:イギリスの作曲家|はあとういりあむ]]