「島津綱貴」の版間の差分

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{{武士/氏族|[[島津氏]]}}
{{武士/父母|父:[[島津綱久]](第2代藩主[[島津光久]]の長男)<br />母:[[伊予松山藩]]2代藩主・[[松平定頼]]の娘(眞修院殿)}}
{{武士/兄弟|多数島津久季([[加治木島津光久家]]養子)、妹2人([[酒井忠隆]]正室)、([[鳥居忠英]]の項参照正室)}}
{{武士/妻|正室:鷹司[[松平信平]]の娘<br />継室:[[上杉綱憲]]養女・鶴姫([[吉良義央]]の娘<ref>[[延宝]]8年([[1680年]])離縁</ref><br />側室:お豊の方(家臣・江田国重の娘)<ref>亀姫の生母で、鶴姫離縁後は対外的に「継室」と称された。参考:「薩藩旧記雑録 追録」「島津家列朝制度」など</ref>他}}
{{武士/子|[[島津吉貴]](長男)、島津久儔(三男)、島津忠直(四男)、島津久方(五男)、[[禰寝清純]](六男)、島津久東(七男)、島津久福(九男)、<br />亀姫([[近衛家久]]室)、栄(久松[[松平定英]]正室)、娘(島津久智室)、娘(町田久儔室)、娘(桂久音室)。}}
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慶安3年(1650年)10月、第2代藩主・光久の嫡孫として生まれた。[[延宝]]元年([[1673年]])、父の綱久が42歳で早世したため、祖父の光久から後継者に指名された。[[貞享]]4年([[1687年]])7月、光久が隠居したため、家督を継ぐ。
 
家督継承後、薩摩藩は大洪水や大火などの災禍が相次ぎ、治世は多難を極めた。そのうえ、幕命による[[寛永寺]]本堂造営の普請手伝い、金銀採掘の手伝いなどを命じられ、薩摩藩の財政は逼迫した<ref>ちなみに、この時の普請の奉行は[[禰寝清雄]]、副奉行はその婿で綱貴の叔父の[[島津久明]]が勤める。</ref>
 
このように藩政は緊張をはらんだ物であったが、諸大名を辛辣な評価をしたことで知られる史料『[[土芥寇讎記]]』では数少ない「領民や藩士から慕われる殿様」として紹介されている。