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あまりに寂しいので、CD
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{{改名提案|[[ジョコンダ・デ・ヴィート]]|date=2009年6月|t=ノート:ジョコンダ・デ・ヴィトー}}
 
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{{クラシック音楽}}
'''ジョコンダ・デ・ヴィトー'''('''Gioconda de Vito''', [[1907年]][[7月26日]] - [[1994年]][[10月14日]])はイタリアの[[ヴァイオリニスト]]。現在では'''ジョコンダ・デ・ヴィート'''と表記されることが多い。
[[マルティナ・フランカ]]に生まれ、ペーザロ音楽院でレミー・プリンチペに師事。
16歳で[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[ヴァイオリン]][[協奏曲]]を弾いてデビューしたが、演奏活動を本格化せず、パリ音楽院に留学して更なる研鑽を積んだ。
 
'''ジョコンダ・デ・ヴィトー'''('''Gioconda de Vito''', [[1907年]][[762622日]] - [[1994年]][[10月14日]])は[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]。現在では'''ジョコンダ・デ・ヴィート'''と表記されることが多い。
[[1932年]]ウィーン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝したが、1934年ローマ聖チェチーリア音楽院の教授に就任し、後進の指導に当たった。
 
[[1962年]]引退。
== 経歴 ==
1907年に北イタリアの[[マルティナ・フランカ]]に、中流の葡萄園主の娘として生まれ、[[1914年]]から地回り[[楽団]]の[[マスター]]について[[ヴァイオリン]]を学び、数年後には近くの[[ペサロ音楽院]]でレミー・プリンチペに師事したが、2年間であらゆる章を総なめにしたため、中途で[[パリ音楽院]]に移る。[[1921年]]、[[ヴィオッティ]]の[[ヴァイオリン協奏曲第22番 (ヴィオッティ)|ヴァイオリン協奏曲第22番]]の第1楽章を弾いて同院を卒業、[[1921年]]に16歳で[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)|ヴァイオリン協奏曲]]を弾いて[[デビュー]]したが、演奏活動を本格化せず、パリ音楽院に留学して更なる研鑽を積んだ。同年、パリ音楽院のヴァイオリン科助手となるも、まもなく辞任。[[1932年]]にウィーン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝したが(25歳)、その後も余り演奏会には出演しなかった。[[1934年]][[聖チェチーリア音楽院|ローマ聖チェチーリア音楽院]]のヴァイオリン科教授に就任して後進の指導に当たり、[[1942年]]に35歳で[[ブラームス]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリン協奏曲]]で[[ローマ]]にデビュー(同曲には11年間もの研鑽を積んだという)、一躍イタリアヴァイオリン界の女王として楽壇の寵児となり、[[1944年]]37歳にして聖チェチーリア音楽院のヴァイオリン科終身教授に任命された。[[1946年]]訪[[イギリス|英]]して[[EMI]]の重役である[[ビックネル]]と知り合ったことが契機となり、[[1948年]]から同社で録音を始め、[[1951年]]にビックネルと結婚する。[[1962年]]4月に突然楽界から引退し、その後は二度と楽器を手にすることはなかったという<ref>中野。</ref>。引退後は[[イギリス]]の[[ハートフォードシャー]]で生活したが、1994年10月にローマで死去した<ref name="西条">別注記以外は西条による。</ref>。
 
== 愛器 ==
[[1953年]]以前は[[フェルディナンド・ガリアーノ|ガリアーノ]]の「[[エックス・カルマン・ロネイ]]」([[1762年]]作)を使用し<ref>[[1939年]][[5月26日]]の[[ミラノ・スカラ座]]における[[メンゲルベルク]]との[[ヴァイオリン協奏曲 (ベートーヴェン)|ベートーヴェン]]や[[1952年]][[3月7日]]の[[トリノ放送局]]における[[フルトヴェングラー]]との[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ブラームス]]の演奏はこの名器によるものである。</ref>、それ以後は[[クレモナ|クレモナ産]]の名器「[[トスカーナ (楽器)|トスカーナ]]」([[1690年]]、[[ストラディヴァリ]]作)を使用、これで演奏された[[エトヴィン・フィッシャー|フィッシャー]]とのブラームスの[[ヴァイオリンソナタ第1番 (ブラームス)|第1番]]と[[ヴァイオリンソナタ第3番 (ブラームス)|第3番]]のソナタは同曲録音中の圧巻と称され<ref>復刻版[[CD]]の印象はそうでもないという(中野)。</ref>、また、[[1957年]]4月に[[ローマ教皇庁|ヴァチカン]]の謁見室で[[ピオ12世]]の前で[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|メンデルスゾーンの協奏曲]]を演奏した折も、この名器を弾いたと推測されている。ちなみに「トスカーナ」は[[メディチ家]]の[[トスカーナ大公]][[コジモ3世|コージモ3世]]のために作られたもので、同家廃絶後、[[競売]]にかけられ幾度か転売され、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]がデ・ヴィートのために購買しようとする計画もあったが実現せず、[[第二次世界大戦後]]、イタリア政府が聖チェチーリア音楽院のために12,000[[UKポンド|ポンド]]で購入して同院へ貸与したため、終身教授であるデ・ヴィートが使用するものともなった<ref>以上、この節は石川による。</ref>。
 
== 芸風 ==
[[バロック音楽|バロック]]から[[近代音楽|近代]]までが演奏範囲であるが、しかもごく一部の曲に限られ、中でもバッハとブラームスを最も得意としたらしく、[[1931年]]にパリへ遊学中、[[トスカニーニ]]の前でバッハを弾いて絶賛されたといい、後者では上述のように一夜にして名声を確立させた協奏曲やソナタがあり、彼女の代表的な演奏ともなっている。大らかにして力強く、伸びやかであるが、パリ音楽院派の洗礼を浴びたためか、イタリアの演奏家にしては珍しく内省的で精緻なものでもあるという。<ref name="西条"/>。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
1994年ローマで死去。
*西条卓夫「イタリアのヴァイオリン女王 ジョコンダ・デ・ヴィート」、石川登志夫「デ・ヴィートとそのヴァイオリン」(『ジョコンダ・デ・ヴィートの芸術』([[東芝EMI]] TOCE-9316~24)の解説書)
*中野雄「魅惑の女流ヴァイオリニストたち」([[宇野功芳]]・中野雄・福島章恭『クラシックCDの名盤 演奏家篇』 [[文春新書]]、平成12年 ISBN 4-16-660132-6所収)
 
[[Category{{DEFAULTSORT:1907年生|ういと しよこんた]]}}
[[Category:1994年没|ういとてしよこんたイタリアのヴァイオリニスト]]
[[Category:イタリアのヴァイオリニスト|ういとてしよこんた人物]]
[[Category:1907年生]]
[[Category:1994年没]]