「阪急51形電車」の版間の差分

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改造は順調に進み、まず51形が56を最後に[[1955年]]9月に姿を消し、同年末には63・64・67・71・72・75・87・88の8両が残るのみとなった。残った車両は箕面線運用が中心であったが、時折本線の普通運用に310形などと併結して充当されていた。この8両も次第に改造されてゆき、63-87-75の3両と、500形の530と編成を組んでいた71<ref>車体は現存する。</ref>が[[1956年]]3月に610系に改造され、全車の鋼体化改造が完了した。
 
51・78の2両は、[[1955年]]6月に電装解除されて電装機器と台車は500形に転用<ref>1形の7・8の2両の代わりに転用された。</ref>され、台車を1形のブリル27E-1台車に換装して制御車化され、300形Mcと組んでMc-Tc(308-78と51-309)の2両編成で使用されたが、[[1956年]]7月には、1形7・8からの電装機器を整備の上取り付け、[[阪急98形電車|98形]]98・99に改番されて本形式は消滅した。
 
=== 車体の譲渡 ===
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*[[くりはら田園鉄道線|栗原電鉄]]:81・86
 
== 51・78→98形の変遷 ==
鋼体化改造を実施された51と78は、ほかの同形式の車両が610系に改造されても、改造当初と変わらず中間に1形5を組み込んだ3両編成で運用されていたが、1955年には、1形7・8の610系への改造に際して台車や電気機器を流用されたために一時的に制御車化された。ただし、制御車化された期間は短く、1956年までに7・8の610系化改造で発生した台車及び電装品を使用して[[動力車|電動車]]に復旧した。その後51と78は、前述のとおり1956年7月に90番台で空番となっていた98・99に改番されて、98形が誕生した。
 
== 98形 ==
98形になってからは、2両編成で[[阪急伊丹線|伊丹線]]と[[阪急甲陽線|甲陽線]]で使用されていたが、[[1959年]]に踏切事故に遭遇し、損傷程度は軽かったものの復旧されることなく[[1960年]]に廃車された。
鋼体化改造を実施された5178は、610系へ2鋼体化改造が開始されてからも、改造当初と変わらず中間に1形5を組み込んだ3編成で運用されていたが、[[1955年]]6月に電装解除されて電装機器と台車は500形に転用<ref>1形の7・8の2両の代わりに転用された。</ref>され、台車を1形のブリル27E-1台車に換装して制御車化され、300形Mcと組んでMc-Tc(308-78と51-309)の2両編成で使用された。しかし、制御車化されていた期間は短く、[[1956年]]7月には、1形7・8からの電装機器を整備の上取り付けて[[動力車|電動車]]に復帰し同時に車番を90番台で空番となっていた[[阪急98形電車|98形]]98・99に改番されて本し、51は消滅した。
 
98形になってからは、2両編成で[[阪急伊丹線|伊丹線]]と[[阪急甲陽線|甲陽線]]で使用されていたが、[[1959年]]に踏切事故に遭遇して98の床下が損傷した。幸い損傷程度は軽かったものの、2両のみの特殊な車両でもあり復旧は見送らることなく[[1960年]]に廃車された。なお99は、[[1959年]]10月に詰所代用として神戸駅(のちの三宮駅)に留置され、51形としては唯一、神戸駅に乗り入れた車両となった。
 
 
==脚注==