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== カロリング朝の従属王国 ==
748年、ピピン3世と宮宰[[カロマン]]は、彼らの弟である[[グリフォ]]へネウストリアに属する12の県を与えた(中心地は[[ル・マン]])。この政策はドゥカトゥス・セノマンニクス(''ducatus Cenomannicus'')またはメーヌ公(Duchy of Maine)と名付けられた。これはネウストリアのレグヌム(regnum)が9世紀になって代わりの名前となった。
 
名称としてのネウストリアは、『セーヌ川とロワール川の間の土地』という意味に置いて用いられた。これはレグヌム(王国)として[[カール大帝]]から長子[[カール (カール大帝の子)|カール]]([[:en:Charles the Younger, son of Charlemagne|en]])へ790年に与えられた。この時、王国の首長都市には、小カールの宮廷として作られたル・マンが現れてきていた。カロリング朝のもと、ネウストリア王の首領たる義務は、ブルトン人に対して[[フランク王国]]の宗主国たる地位を守ることにあった。
 
817年、フランク王[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ1世敬虔王]]はネウストリアを自らの長子[[ロタール1世]]へ授けた。しかし、831年にロタールが反乱を起こすに伴い、彼はネウストリアを次男のアキテーヌ王[[ペパン1世]]へ与え、838年にペパンが死ぬと、[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]へ与えた。アキテーヌとともにネウストリアは、シャルルの西フランク王国の主要な部分を形成した。この王国は、843年の[[ヴェルダン条約]]により皇帝から削られていた。856年に[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]]を即位させると、シャルル2世はル・マンにあるネウストリア支配権を長子へ贈る伝統を続けた。ルイ2世は[[ブルターニュ]]王[[エリスポ]]([[:en:Erispoe|en]])の娘と結婚した。そして、フランク人有力者の同意を得たブルトン人王朝からレグヌムを授けられた。この一風変わったネウストリアの協力関係は、当時の[[イル・ド・フランス]]とパリを明らかに除外することでどのようにネウストリア王とブルトンとの隔たりが縮められたかを強調した。中央にいるシャルル2世とは遠く、エリスポとは近かったためである。ルイ2世は、父親によってネウストリア王に任命された最後のフランク王であった。息子のために従属王国を創設する慣習が、のちのカロリング朝では減っていった。
== カロリング朝の辺境侯 ==
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*[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]], 838年–856年
*[[ルイ2世 (西フランク王)|ルイ2世]] 856年–879年
ルイ2世は、857年11月に起きたエリスポ暗殺に伴い、ル・マンから追放された。
 
=== カペー朝の辺境侯 ===