「三日平氏の乱 (平安時代)」の版間の差分

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[[寿永]]2年([[1183年]])7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、元暦元年([[1184年]])3月に[[大内惟義]]が伊賀の[[守護]]に補任され、[[武蔵国]]の[[御家人]][[大井実春]]が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。7月7日[[辰の刻]](午後8時頃)に[[平家継]]を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。時を同じくして伊勢でも[[平信兼]]以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺したという(『[[玉葉]]』7月8日条)。
 
19日には[[近江国]]大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道らが討ち取られた。平信兼・[[藤原忠清]]は行方をくらまた。反乱はほぼ鎮圧されたものの、[[源氏]]方も老将[[佐々木秀義]]が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。
 
8月3日、事態を重く見た[[源頼朝|頼朝]]は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を[[源義経|義経]]に命じる。