→最期
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仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした[[荻生徂徠]]などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
元禄16年([[1703年]])2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主[[吉良義周]](吉良左兵衛、吉良上野介の養子)の領地没収と[[信濃国|信州]][[流罪|配流]]の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、内蔵助と面識がある幕府[[目付]][[荒木
== 辞世の句 ==
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