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'''園祥子'''(その さちこ、[[慶応]]3年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[1867年]][[12月23日]]) - [[昭和]]22年([[1947年]])[[7月7日]])は、[[明治天皇]]の[[側室]]。[[伯爵]]・[[園家|園基祥]]の次女。
 
明治天皇との間に[[猷仁静子内親王]](夭折)・[[親王]](夭折)・[[静子内親王]](夭折)・[[恒久王妃昌子内親王|常宮昌子内親王]]([[竹田宮恒久王]]妃)・[[成久王妃房子内親王|周宮房子内親王]]([[北白川宮成久王]]妃)・[[鳩彦王妃允子内親王|富美宮允子内親王]]([[朝香宮鳩彦王]]妃)・[[満宮輝仁親王]](夭折)・[[東久邇聡子|泰宮聡子内親王]]([[東久邇宮稔彦王]]妃)・[[貞宮多喜子内親王]](夭折)の2男6女を儲ける。
 
[[明治天皇]]の皇后は一条美子皇后・後の[[昭憲皇太后]]であるが、美子皇后は懐妊の兆候がなく、明治天皇はこのまま行くと皇統断絶になってしまうと考え、7人の側室を置くことを決めた。そのなかの一人が園祥子である。
 
明治天皇は園祥子を最も寵愛したと言われている。
 
明治天皇の崩御後は[[貞明皇后]]の女官長となり、若君(後の[[三笠宮崇仁]]親王]])の出産に立ち会った。