「金剛證寺」の版間の差分

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[[室町時代]]には[[神仏習合]]から[[伊勢神宮]]の丑寅(北東)に位置する当寺が「伊勢神宮の[[鬼門]]を守る寺」として[[伊勢信仰]]と結びつき、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば[[片参り]]」とされ、[[伊勢国|伊勢]]・[[志摩国|志摩]]最大の寺となった。
 
[[関原の戦い]]から敗走したのちに[[答志島]](現・鳥羽市)で自刃した[[九鬼嘉隆]]のゆかりの寺であり、嘉隆にまつわる所蔵品がいくつかある。嘉隆の三男有慶は嘉隆の菩提を弔い金剛證寺に出家し、金剛證寺第12世となった。
 
[[江戸時代]]には[[徳川幕府]]が伊勢神宮と絡んで重視し、援助した。[[1609年]]([[慶長]]14年)には[[備前国]][[岡山城]]主であった[[池田輝政]]が火災で失われた[[本堂]]摩尼殿(まにでん)を再建した。この本堂は[[1701年]]([[元禄]]14年)に[[徳川綱吉]]の母[[桂昌院]]による修復を経て現存し、[[重要文化財]]に指定されている。