「南都焼討」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
25行目:
 
== 背景 ==
[[平治の乱]]の後、[[大和国]]が清盛の[[知行国]]になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して国内全域において[[検断]]を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した。特に[[聖武天皇]]の発願によって建立されて、以後[[鎮護国家]]体制の象徴的存在として歴代[[天皇]]の崇敬を受けてきた東大寺と[[藤原氏]]の[[氏寺]]であった興福寺は、それぞれ[[皇室]]と[[摂関家]]の権威を背景とし、また[[大衆 (仏教)|大衆(だいしゅ)]]と呼ばれる[[僧侶]]集団が元来自衛を目的として結成していた[[僧兵]]と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとしてこれに反抗していた。だが、治承3年([[1179年]])11月に発生した[[治承三年の政変]]で皇室と摂関家の象徴ともいえる[[治天の君]][[後白河法皇]]と[[摂政]][[松殿基房]]が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年([[1180年]])5月26日の[[以仁王の挙兵|以仁王の乱]]を契機に[[園城寺]]や諸国の[[源氏]]とも連携して反平氏活動に動き始めたのである。
 
以仁王の乱が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷[[法会]]への参加の禁止、[[僧綱]]の罷免、寺領没収などの処分を行ったが、興福寺はこの時の[[別当]][[玄縁]]が平氏に近い立場をとっており、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかった。平氏と興福寺の緊張関係は平氏の[[福原行幸]]後に一定程度緩和されていたが、この年の末に[[近江攻防]]で園城寺・興福寺の大衆が[[近江源氏]]らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に[[平重衡]]が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。