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| 人名 = ムスタファ3世
| 各国語表記 = Mustafa III
| 君主号 = オスマン帝国26代スルタン皇帝
| 画像 = Mustafa III by John Young.jpg
| 画像サイズ = 200px
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| 配偶者9 =
| 子女 =
| 王家 = オスマン家
| 王朝 = オスマン朝
| 賛歌 =
| 父親 = [[アフメト3世]]
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| 埋葬地 =
}}
'''ムスタファ3世'''('''Mustafa III''', [[1717年]][[1月28日]]‐[[1774年]][[1月21日]])は、[[オスマン帝国]]の第26代[[スルタン皇帝]](在位:[[1757年]]‐1774年)。父は第23代[[アフメト3世]]。先代[[オスマン3世]]は伯父の息子にあたる。母親は[[フランス人]]。
 
[[1730年]]の父アフメト3世の廃位に伴い、以後27年間を宮中の幽閉下で過ごしたが、1757年にオスマン3世が嗣子なく死去したためスルタン皇帝に即位した。
 
精力的かつ開明的な君主皇帝であり、西欧列強に比べて時代遅れであることが明らかになったオスマン帝国の軍隊や国家制度の近代化を進めようとした。しかしその試みは旧権力層である[[イェニチェリ]]や[[イマーム]]の強い抵抗を受けた。数学や航海術、自然科学のアカデミーを設立。
 
ヨーロッパ列強に比べて自国の軍事的劣弱を正確に認識していたため、戦争を控えていた。しかし1768年に[[ポーランド]]で内乱が発生し、[[ロシア軍]]の[[コサック]]騎兵が逃げる[[ポーランド人]]を追ってオスマン帝国領内(現[[ウクライナ]]領バルタ)に侵入したため、[[ロシア帝国]]に対し宣戦を布告せざるを得なくなった(第5次露土戦争)。しかし戦争はムスタファの恐れたとおり敗戦続きで、その最中に病死した。
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{{先代次代|[[オスマン帝国の君主|オスマン帝国の皇帝]]|第26代: 1757 - 1774|[[オスマン3世]]|[[アブデュルハミト1世]]}}
 
[[Category:オスマン帝国の君主|むすたふあ3]]