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'''岡津陣屋'''(おかづじんや)は[[神奈川県]][[横浜市]][[泉区 (横浜市)|泉区]]岡津町([[相模国]][[鎌倉郡]])にあった[[天領]]支配のために設けられた[[陣屋]]である。'''岡津代官所'''とも称する。付近の[[天領]]支配のために設けられた
 
== 概要 ==
陣屋は現在、[[相鉄いずみ野線江戸幕府]]の代官頭であった[[緑園都市駅彦坂元正]]によって、[[弥生台駅大山街道]]のほぼ中間に位置してお(柏尾通大山道)に沿った、阿久和川の右手の丘陵部分に築かれているこの地点は相模国・[[武蔵国]]の国境に接した場所で、かつて[[横浜市立後北条氏]]の出城であった[[岡津小学校城|岡津城址]]とその背後あり、築かれた構えを利用している。子易川と阿久和川を利用し、堀が南と西に巡り、東側には比較的高い[[土塁]]があり、北側には大規模な[[空堀]]により、四方堅められていた様子が見てとれる
[[伊奈氏]]、[[大久保氏]]と共に代官頭であった[[彦坂元正]]は相模国鎌倉郡岡津村に陣屋を構えた。彦坂氏は[[小田原藩]]支配下の[[足柄上郡]]・[[足柄下郡]]両郡と[[三浦郡]]を除いた相模国の6郡と[[伊豆国]]の一部に及ぶ広大な天領を支配されたことで[[江戸幕府]]の天領支配を確かなものにした功績がある。
 
陣屋は中世、[[小田原]][[北条氏]]の{{要城であった岡津城址に築かれた構えを利用している。典範囲|岡津に陣屋を置き在地支配の拠点としたのは、鎌倉という街と宗教権門勢力を押え、さらに江戸の南、[[東海道]]を押さえる目的であったと思われる。|2009年6月21日 (日) 12:14 (UTC)}}
[[大久保長安]]に替わるまで伊豆天領と伊豆金山の奉行も兼ねていた。
 
そんな、彦坂元正は[[慶長]]11年([[1606年]])息子共々[[改易]]され、この陣屋も一代限りで廃止となり、その後は[[旗本]][[黒田氏]]の知行地となった。現在では横浜市立岡津小学校の校地となっている
陣屋は現在、[[相鉄いずみ野線]]、[[緑園都市駅]]と[[弥生台駅]]のほぼ中間に位置しており阿久和川の右手の丘陵部分に築かれている。相模国・[[武蔵国]]の国境に接して[[横浜市立岡津小学校]]とその背後にあり、子易川と阿久和川を利用し、堀が南と西に巡り、東側には比較的高い[[土塁]]があり、北側には大規模な[[空堀]]により、四方を堅めていた様子が見てとれる。
 
陣屋は中世、[[小田原]][[北条氏]]の出城であった岡津城址に築かれた構えを利用している。岡津に陣屋を置き在地支配の拠点としたのは、鎌倉という街と宗教権門勢力を押え、さらに江戸の南、[[東海道]]を押さえる目的であったと思われる。
 
そんな、彦坂元正は[[慶長]]11年([[1606年]])息子共々[[改易]]され、この陣屋も一代限りで廃止となり、その後は[[旗本]][[黒田氏]]の知行地となった。
 
== 参考文献 ==
* 児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭大系第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社、1980
* 日本城郭史学会・西ヶ谷恭弘編『国別城郭・陣屋・要害・台場事典』[[東京堂出版]] 2002
 
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