「レシェク1世」の版間の差分

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[[画像:Sejm w Gasawie.jpg|thumb|350px|thumb|ゴンサヴァでの諸公会議、レシェク白公のほかに弟のマゾフシェ公[[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト]]、シロンスクの[[ヘンリク1世]]髭公、[[ヴワディスワフ3世 (ポーランド大公)|ヴワディスワフ3世]]細足公などが描かれている]]
レシェクは東の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ルーシ]](ルテニア)をめぐって[[ハンガリー]]と戦ったが、この地域に影響力を及ぼすことは出来なかった。そこでレシェクはハンガリーと共同でこの地域に進出することを決め、[[アンドラーシュ2世]]の息子[[コロマーン (ハールィチ・ヴォルィーニ王)|カールマーン]]に自分の娘[[サロメア (福者)|サロメア]]を嫁がせ、彼をハールィチの君主としたうえでハンガリー王の封臣とし、この主従関係を使ってポーランドとハンガリーの両者がこの地域を支配することにした。しかし亡きロマン大公の息子[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]が1214年にハールィチ([[ガリツィア]])における勢力を回復し、同地域を支配しようとしたポーランドと、カトリックの勢力を東方に拡大しようとしたローマ教会の狙いは、失敗に終わった。
 
1227年、レシェク白公は[[ゴンサヴァ]]で開催された諸公会議に出席した時に暗殺された。暗殺を命じたのは東[[ポモジェ]]のグダニスク公[[シフィエントペウク2世]]だったと思われ、おそらくシフィエントペウクの義弟である[[ヴィエルコポルスカ]]公[[ヴワディスワフ・オドニツ]]が裏で糸を引いていた。この事件はレシェクがポモジェの公に自らの権威に服するよう求めたことが原因だったと言われている。
1207年、レシェクは[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ルーシ]]の周辺部を領する[[ルーツィク]]公[[イングヴァル・ヤロスラヴィチ (ルーツィク公)|イングヴァル]]の娘、[[グジミスワヴァ・ウツカ|グジミスワヴァ]]と結婚した。この結婚はポーランドの東方拡張政策の一環でもあった。夫妻はあいだに1男1女をもうけた。
 
#[[サロメア (福者)|サロメア]](1211/1212年 - 1268年)…[[アンドラーシュ2世]]の息子[[コロマーン (ハールィチ・ヴォルィーニ王)|カールマーン]]と結婚、[[福者]]
#[[ボレスワフ5世]](1226年 - 1279年)
{{Commonscat|Leszek I of Poland}}