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==人物==
東京に生まれ、父親の曽登吉([[1865年]] - [[1907年]])が外交官だったため、そのアメリカ合衆国シアトル領事館赴任に伴い2歳から、両親とシアトルで過ごした。[[1902年]]、シアトルから帰国。[[1904年]]、父のボンベイ赴任に伴い、福井市の親戚に預けられる。[[1908年]]、両親が帰国、このため、同年、福井県立師範学校附属小学校に入学したときは外人のような変な子供と見られ、[[いじめ]]を受けた。やがて京都市立錦林小学校に転じ、[[1911年]]、京都府立第一中学校(現・[[京都府立洛北高等学校]])に進んだが、芝居や音楽に熱中して[[1916年]]に入学した[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部丙類を中退。[[1919年]]、[[京都大学|京都帝国大学]]文学部哲学科(選科)に入学。[[西田幾多郎]]、[[深田康算]]らに学んだ。専攻は、美学及び美術史。卒業論文は「[[ギリシア悲劇|希臘悲劇]]の起源」であった。1922年3月の卒業の後、1924年4月、[[東洋大学]]文化科教授となり(田之倉稔「林達夫 回想のイタリア旅行」イタリア書房、253ページ)、[[文化史]]を担当した。津田英学塾([[津田塾大学]])講師、[[法政大学]]予科英語講師(1934年4月から法政大学文学部講師となり、フランス哲学と宗教学)としても教鞭をとる傍ら、1927年夏頃から岩波書店の雑誌『思想』、1928年2月から『世界思潮』の編集にも携わった。[[三木清]]との親しい交際も有名。1931年、ソヴィエート友の会が結成され、出版部長となる。1932年、唯物論研究会が結成され、幹事の1人となる
 
1922年3月の卒業の後、1924年4月、[[東洋大学]]文化科教授となり(田之倉稔「林達夫 回想のイタリア旅行」イタリア書房、253ページ)、[[文化史]]を担当した。津田英学塾([[津田塾大学]])講師、[[法政大学]]予科英語講師(1934年4月から法政大学文学部講師となり、フランス哲学と宗教学)としても教鞭をとる傍ら、1927年夏頃から岩波書店の雑誌『思想』、1928年2月から『世界思潮』の編集にも携わった。[[三木清]]との親しい交際も有名。1931年、ソヴィエート友の会が結成され、出版部長となる。1932年、唯物論研究会が結成され、幹事の1人となる。
1933年8月、写真家集団日本工房の顧問、1939年4月立教大学文学部講師(アメリカ史)、1938年、[[昭和研究会]]内の文化研究会にオブザーヴァーとして参加。1941年、東方社理事となり、1943年3月、東方社理事長となった([[FRONT]]を参照)。
 
1933年8月、写真家集団日本工房の顧問、1939年4月立教大学文学部講師(アメリカ史)、1938年、[[昭和研究会]]内の文化研究会にオブザーヴァーとして参加。1941年、東方社理事となり、1943年3月、東方社理事長となった([[FRONT]]を参照)。
[[第二次世界大戦]]後、1945年11月、[[中央公論社]]理事および出版局長(のち顧問)。[[1946年]]、鎌倉大学校(のちの[[鎌倉アカデミア]])に招かれ、文芸学、西洋文化史を教え、後その文学科長に選ばれた。「共産主義的人間」(1951年、文芸春秋掲載)で[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]による[[スターリン批判]](1956年)に先駆けて、共産主義批判を行った。
 
[[第二次世界大戦]]後、1945年11月、[[中央公論社]]理事および出版局長(のち顧問)。[[1946年]]、鎌倉大学校(のちの[[鎌倉アカデミア]])に招かれ、文芸学、西洋文化史を教え、後その文学科長も務めたが4年半後選ばれ解散した。「共産主義的人間」(1951年、月刊「[[春秋]]」に掲載)で[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]による[[スターリン批判]](1956年)に先駆けて、共産主義批判を行った。
1949年、明治大学文学部講師。
 
1949年、明治大学文学部講師、1956年、明治大学文学部教授兼大学院文芸科教授。1963年、明治大学文学部教授兼大学院文芸科講師。
[[1951年]]4月、[[平凡社]]に入り、『児童百科事典』『哲学辞典』の企画編集に携わると共に、[[1954年]]、『[[世界大百科事典]]』の編集責任者となった。[[1958年]]にこれが完結すると共に一線を退き、平凡社顧問となった。
 
[[1951年]]4月、[[平凡社]]に入りの幹部編集者として、『児童百科事典』『哲学辞典』の企画編集に携わると共に、[[1954年]]、『[[世界大百科事典]]』の編集責任者となった。[[1958年]]にこれが完結すると共に一線を退き、平凡社顧問となった。
1956年、明治大学文学部教授兼大学院文芸科教授。1963年、明治大学文学部教授兼大学院文芸科講師。
 
[[1973年]]、長年にわたる西洋精神史の研究、著述などを評価されて、[[朝日賞]]文化賞を受賞。岩波文庫に[[ジャン・アンリ・ファーブル|ファーブル]]の『昆虫記』、[[ヴォルテール]]の『哲学書簡』、[[アンリ・ベルクソン]]『笑い』などのも行ってい書がある。[[1984年]][[4月25日]]午前2時50分、老衰のため[[藤沢市]][[鵠沼]]で死亡した病没
 
蔵書は、[[明治大学]]に納められた。[[1991年]]に「明治大学図書館所蔵林達夫文庫目録」が出ている。