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人形浄瑠璃の人形遣い
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2009年6月24日 (水) 12:22時点における版

吉田 文三郎(よしだ ぶんざろう)は、人形浄瑠璃の人形遣い。代々墓所は大阪市中央区法善寺にある。

初代

(生年不詳 - 宝暦10年(1760年1月19日浄瑠璃作者としても著名で初代吉田冠子の名を名乗った。

大坂の生まれ、父は吉田流の元祖の初代吉田三郎兵衛。幼名を八之助。幼少から父を陶酔し1717年に「国性爺後日合戦」の錦舎役で初舞台を踏む。

三人遣いの発案者とされ「蘆屋道満大内鑑」の安倍保名「仮名手本忠臣蔵」の由良之助「義経千本桜」の狐忠信等現在に残される名作を演じ「まるで人形が生きているようだ」と評されるほどだった。

長年大坂竹本座座頭として勤めたが、太夫との衝突も多く何度も退座、1759年には一門を引き連れて一座を建設を計画中の1760年に没。

実子が文三郎の名と作者の名の冠子を相続した。

2代目

享保17年(1732年) - 寛政2年(1791年12月4日))

大阪の生まれ、祖父は初代三郎兵衛、父は初代文三郎。初名を初代吉田文吾、後に2代目三郎兵衛を経て、1761年に2代目文三郎を襲名。

女方、立ち役に優れた。作者の名の2代目冠子も名乗る。

3代目

(生年不詳 - 文政12年(1829年1月7日

大阪の生まれ、2代目文三郎の門弟。初名を初代吉田千四1779年に竹本座が初舞台。1806年に座頭。1821年に3代目文三郎を襲名。