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長年大坂[[竹本座]]の[[座頭]]として勤めたが、[[太夫]]との衝突も多く何度も退座、[[1759年]]には一門を引き連れて一座を建設を計画中の1760年に没。
 
作者として『[[恋女房染分手綱]]』を[[三好松洛]]と合作。
 
実子に初代[[吉田文吾]](後の2代目文三郎)、[[吉田文吾#2代目|2代目文吾]]。