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'''アンドリュー・テーラー・スティル'''('''Andrew Taylor Still''', [[1828年]][[8月6日]]-[[1917年]][[12月12日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の医師。[[オステオパシー]]の創始者であり、「オステオパシー療法の父」と言われている。
 
スティルは、1828年に[[バージニア州]]で生まれた。父親は[[メソジスト]]の牧師であると同時に、医師であった。幼い頃にスティルは父親の跡を継いで医師になると決め、医学を学んだ後は父親の元で修行を積み、[[ミズーリ州]]で[[メディカルドクター|M.D.]]の資格を得た。また、後の1860年代初頭には、[[ミズーリ州]][[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]の学校で外科医の単位も追加取得した。[[南北戦争]]には、北軍の従軍医師として参加している。
 
南北戦争の後、彼は3人の息子(2人が実子、1人は養子)を脊髄膜炎で失い、正当医学は完璧ではなく時に有害ですらあるとの結論を得た。彼は、それからの十年間、人体について研究し、病のよりよい扱い方を見つけだした。
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彼は自身の研究や臨床的な観察により、彼は筋肉や骨格の仕組みが、健康や疾病に重大な役割を果たすと考え、もしそれら筋肉や骨格に適切な刺激を与えることが出来るならば、健康を維持することが出来るに違いないとした。また、今もなおオステオパシーの手技として知られているやり方で治療行為を行うことにより、身体の構造中の問題を修正することによって、身体は適切に機能し、かつ自己治癒力が改善されるかもしれないと信じた。さらに、彼は、予防医学についての考えを押し進め、医師は病だけではなく、患者の全体としての治療に注目すべきとの考えを支持した。
 
これらの確信は、新しい医学的アプローチを形成し、オステオパシーの基礎となった。この思想に基づき、スティルは、オステパシーの最初の学校となる最初の学校''American School of Osteopathy''(アメリカン・スクール・オブ・オステオパシー(現在のKirksville[[:en:A. CollegeT. ofStill Osteopathic Medicine)University]])をミズーリ州のカークスビルに設立した。
 
[[Category:バージニア州の人物|すているあんとりゆう]]
[[Category:1828年生|すているあんとりゆうてえらあ]]
[[Category:1917年没|すているあんとりゆうてえらあ]]
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[[Category:代替医療]]
[[Category:手技療法]]
 
[[de:Andrew Taylor Still]]