「ガッラ・プラキディア」の版間の差分

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[[Imageファイル:Galla Placidia (rechts) und ihre Kinder.jpg|thumb|300px|ガッラ・プラキディアと2人の子供]]
'''アエリア・ガッラ・プラキディア'''({{lang|la|'''Aelia Galla Placidia'''}}, [[390年]]頃 - [[450年]][[11月27日]])は、5世紀の[[ローマ帝国]]の女性。<!--数奇な一生を送った。-->ローマ皇帝[[テオドシウス|テオドシウス1世]]とその後妻ガッラ([[ウァレンティニアヌス2世]]の娘)の間に生まれた。[[ホノリウス|ホノリウス帝]]と[[アルカディウス|アルカディウス帝]]の異母妹である。
 
414年1月、プラキディアはアラリックの弟で、その死後に西ゴートの王となった[[アタウルフ]]と[[ナルボンヌ]]で結婚した。歴史家の[[ヨルダネス]]は、二人は411年に[[フォルリ]]で結婚したとしている。ヨルダヌスによる日付は、彼女とアタウルフが事実上の結婚を済ませたときであると思われる。プラキディアが生んだ息子はテオドシウスと名付けられたが、幼児のうちに死に[[バルセロナ]]に埋葬された。のちにその遺体はローマの[[サン・ピエトロ大聖堂]]にある皇帝の霊廟に移された。アタウルフは自分が殺害したゴート人の首領の部下に襲われて重傷を負い、415年の夏、いまわの際にプラキディアをローマ人のもとへ返すよう命じた。416年、ゴート王[[ワリア]]はローマ人と条約を結んで支持を得る見返りに、彼女を返還した。
 
[[Imageファイル:Ravenna 1978 079.jpg|thumb|200px|ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂の内部]]
417年1月、兄ホノリウスに強制され、プラキディアは将軍コンスタンティウス([[コンスタンティウス3世]])と結婚した。2人の間には[[ウァレンティニアヌス3世]]となる息子と、娘[[ユスタ・グラタ・ホノリア]]が生まれた。421年、コンスタンティウスは短期間皇帝となるが、すぐに死去した。今度は兄ホノリウス自身が求婚者となったが、彼女は子供を連れて[[コンスタンティノポリス]]に逃れた。ホノリウスが423年に死ぬと、[[ヨハンネス]]が皇帝を名乗り、[[フラウィウス・アエティウス]]と同盟を組むが鎮圧され、425年、ウァレンティニアヌス3世が皇位に就いた。
 
プラキディアは一生を通じて敬虔なカトリック教徒で、後年にはラヴェンナでいくつかの教会に寄進を行った。[[ラヴェンナ]]の[[ガッラ・プラキディア廟堂]]は、1996年にユネスコによって世界遺産に登録されている。
 
== 参考文献 ==
*[http://etext.library.adelaide.edu.au/g/g43d/chapter33.html Edward Gibbon, ''History of the Decline and Fall of the Roman Empire,'' chapter 33]
*Stewart Irwin Oost, ''Galla Placidia Augusta, A Biographical Essay'', 1967.
*藤沢道郎 『物語 イタリアの歴史』 中央公論社〈中公新書〉、1991年。
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Galla Placidia}}
 
{{DEFAULTSORT:かつら ふらきてあ}}
 
[[Category:ローマ皇后]]
[[Category:女性摂政]]
[[gl:Gala Placidia]]
[[he:גאלא פלקידיה]]
[[hu:Galla Placidia]]
[[it:Galla Placidia]]
[[la:Aelia Galla Placidia]]
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