「小錦下」の版間の差分

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(664年から685年まで日本で用いられた冠位。26階中12位。)
 
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他にも天武天皇2年([[673年]])に[[小紫]]の[[美濃王]]とともに[[造高市大寺司]]になった[[紀訶多麻呂]]がいる。[[対馬国]]から初めて産出した銀を献じた[[忍海大国]]は、その功績により小錦下に叙された。[[久努麻呂]]は、天武天皇4年([[675年]])に天皇の怒りを買って小錦下の位を奪われた。[[阿曇稲敷]]は、天武天皇10年([[681年]])に、天皇が帝紀および上古の諸事を記し定めることを命じたとき、その一員になった。
 
天武天皇12年([[683年]])には、諸国の境界を確定するため、[[諸王五位]]の[[伊勢王]]に従って、小錦下の[[多品治]]と[[中臣大島]]らが巡行に出た。天武天皇13年([[684年]])には、[[三野王]]に従って小錦下の[[女筑羅]]が[[信濃国|信濃]]の地形を見分した。
 
以上は何らかの事件に付随して人名・冠位が現れたものだが、『日本書紀』の中には小錦下を授けられたことだけが記された例がある。小錦下への到達それ自体に重要性を認めたものである。天武天皇9年([[680年]])の[[朴井子麻呂]]、翌年の[[田中鍛師]]、[[柿本猿]]、[[田部国忍]]、[[高向麻呂]]、[[粟田真人]]、物部麻呂([[石上麻呂]])、[[中臣大島]]、[[曾禰韓犬]]、[[書智徳]]と無名の10人、さらにその翌年の[[舍人糠虫]] がその例である。
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