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'''民主正義党'''(みんしゅせいぎとう)は、[[大韓民国]]の政党で、[[全斗煥]]政権・盧泰愚政権前半期の[[与党]]。新軍部勢力が中心となり、民族・民主・正義・福祉・統一の5大理念を掲げて[[1981年]][[1月15日]]に結成。略称は「'''民正党'''」。[[1997年]]に結成され、[[李明博]]政権(2008~)与党の[[ハンナラ党]]は、離合集散一定の範囲内ではあるもののが、民正党の流れを汲む政党である。
 
== 歴史 ==
1981年[[2月25日]]大統領選挙人団によるの間接投票で行われた大統領選挙では、他の3人の候補を抑えて全斗煥が90.2%の得票率で大統領に当選、翌月の[[3月25日]]の第11代総選挙では、地域区の第1党に全国区の3分の2を配分する選挙制度によって過半数を制した。
 
党名は、「社会正義を具現する」との全斗煥の考えを反映している。この「社会正義」の実践として、全斗煥の政権掌握直後には、多数の[[ヤクザ|やくざ者]]や[[ホームレス]]、[[非行]]少年が強制収容所([[三清教育隊]])に送られた。
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[[1980年代]]を通じた韓国の政権政党でありながらも、[[盧泰愚]]政権への移行する際に出された[[1987年]]の[[民主化宣言]]の後は穏健化した。[[社会民主主義]]政党の積極的な育成にも言及したことがある。
 
16年ぶりの国民による直接選挙となっで行われた1987年[[12月]]の第13代大統領選挙で盧泰愚が、[[統一民主党]](民主党)の[[金泳三]]と[[平和民主党]]の[[金大中]]の間隙を縫って、4割足らずの得票率で当選したが、[[1988年]][[4月26日]]の第13代総選挙では、民正党が過半数を大きく割り込み、野党が国会の多数を占めることになった('''与小野大''')。そのことに危機感を抱いた民正党は[[1990年]][[1月30日]]、統一野党である民主党・[[新民主共和党]]と合同し、[[民主自由党]]となった。[[金泳三]]へと政権を移譲するための合同とみなされたが、実際には合同後に旧党派間で激しい権力闘争が繰り広げられた。しかし、結果的には金泳三が民主自由党を代表する大統領候補となり、[[金大中]]と対決した。
 
== 選挙における党勢推移 ==
== 民主正義党が候補者を擁立した選挙 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center"
!年!!大統領選挙!!候補者!!得票率!!当落
|+大統領選挙
!年
!選挙
!候補者
!得票数
!得票率
!当落
|-
!|align="center"|[[1981年]][[2月25日]]
|align="center"|[[第11代総選挙 (大韓民国)|1981年大韓民国大統領選挙]]
|align="center"|全斗煥
|align="right"|4,755
|90.2%
|align="right"|90.2%
|align="center"|'''当選'''
|-
!|align="center"|[[1987年]][[12月16日]]
|align="center"|[[1987年大韓民国大統領選挙]]
|align="center"|盧泰愚
|align="right"|8,282,738
|36.6%
|align="right"|36.6%
|align="center"|'''当選'''
|}
*1981年の大統領選挙は、選挙人団による間接投票。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
!年月日!!総選挙!!議席数<br>(地域区+全国区)!!得票率
|+総選挙
!年月日
!選挙
!年月日!!総選挙!!議席数<br>(地域区+全国区)!!得票率
!得票率
|-
!1981年[[3月25日]]