「嵐小六 (3代目)」の版間の差分

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'''3代目 嵐小六'''(さんだいめ あらし ころく、[[1741年寛保]]元年([[寛保1741年]]) - [[1796寛政]]8[[3月29日]]([[寛政1796年]]8)[[35296日]]))は[[江戸]]中期の[[歌舞伎役者]]である。[[屋号]]は吉田屋。[[俳名]]に珉子・珉獅・小七。
 
[[嵐三右衛門 (5代目)|5代目嵐三右衛門]]の子。嵐岩次郎から初代[[嵐雛助]]と改名。「雛助」の名は、父が[[市川團十郎 (2代目)|2代目市川團十郎]]から譲られた俳名から付けた。[[宝暦]]2年 (([[1752) 年]])、[[大坂]][[三枡座]]『名古屋織雛鶴錦』で初舞台を踏み、このときの所作事が大好評となる。以後は順調に活躍。[[天明]]6年 (([[1787) 年]])、叶雛助と改名。[[寛政]]5年11月 (([[1793) 年]])11月、大坂淺尾文吉座『太平記忠臣講釈』で3代目[[嵐小六]]を襲名。同時に長男の[[中村十蔵]]に2代目の雛助を継がせる。「小六玉」の愛称で人気を集め三都随一無類と評されたが、舞台稽古中に倒れ帰らぬ人となった。
 
所作に優れ多くの役をこなしたが、肥満体で上品な芸であったので公家悪や天下をねらう謀反人を得意とし『[[天満宮菜種御供]]』の[[藤原時平]]、『[[釜淵双級巴]]』の[[石川五右衛門]]などが生涯の当たり役だった。特に時平の演出は一見善人を装いながら最後に大悪人の本性を見せ高笑いするという近代的なもので、これが通称の『時平の七笑』として今日に伝わることになった。石川五右衛門では歌舞伎史上初めて尻をまくって[[花道]]を引っ込んだが、小六の身についた所作の美しさは尻を出しても絵になるほどだったという。
 
子に[[嵐雛助 (2代目)|2代目嵐雛助]]・[[嵐小六 (4代目)|4代目嵐小六]]・[[嵐雛助 (3代目)|3代目嵐雛助]]・[[嵐小六 (5代目)|5代目嵐小六]]が、門人には[[嵐三右衛門 (6代目)|6代目嵐三右衛門]]・[[嵐三右衛門 (7代目)|7代目嵐三右衛門]]などがおり後継者に恵まれたことで[[上方歌舞伎]]に一大勢力をもった。
 
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== エピソード ==
三右衛門の薫陶を受けて育った。父の教育はきびしく小六はそれに耐えて名優としての基礎を学んでいった。父と共演したとき観客が小六をさかんに褒めるので、父は「あんな客ばかりなら、もうこの小屋の世話になるな」と小六に言った。父がやっかみで言っていると誤解した小六は、翌日観客が褒める声に合わせ即興で見得をして大歓声を受けた。褒めると思っていたはずの父は、逆に激怒して小六の横面をはりとばして「あんなことで見得するのは格下の[[浜芝居]]のすることだ。客はお前の演技を褒めてるのではない。ただ役者の顔をほめているだけだ。分からないならもう一緒に舞台に立つな」と叱った。
 
== 備考 ==
*『東洲しゃらくさし』[[松井今朝子]] - 嵐小六がキャラクターの1人として登場する。
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