「権堂町 (長野市)」の版間の差分

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* [[1187年]](文治3年) - [[源頼朝]]が[[善光寺]]の再建を命じ、善光寺御本尊が一時[[往生院]]に移される。
* [[1847年]](弘化4年)[[3月24日]] - [[善光寺地震]]発生。権堂村の被害は焼失274戸、死者89人、けが人111人。
* [[18711876年]](明治119年) - [[公娼5月30日]]制度により - 権堂村の[[遊郭]]がすべて東に隣接する郡問御所村・七瀬村と合併し水内郡'''鶴賀新地(長野遊郭=現在の[[鶴賀 (長野市)#東鶴賀町|東鶴賀町]])に移され村'''となる。
* [[1878年]](明治11年) - [[公娼]]制度により、町内の[[遊郭]]がすべて東に隣接する鶴賀新地(長野遊郭=現在の[[鶴賀 (長野市)#東鶴賀町|東鶴賀町]])に移される。
* [[1889年]](明治22年)[[4月1日]] - 上水内郡鶴賀町、同郡'''長野町'''に編入。のち[[1897年]](明治30年)に'''長野市'''となる。
* [[1899年]](明治32年) - 江戸時代から権堂村の遊郭が客寄せのため催していた煙火会(花火大会)を発展させた、[[えびす講煙火|長野えびす講煙火大会]]が始まる。なお江戸時代の煙火会は、「商店、旅館の繁昌は云うばかりでなく料理屋、飲食店は客で充満し、遂にはどこへ行っても芋の煮ころがしひとつ買うことの出来ぬほどの盛況を呈せり」というほどの盛況ぶりであったという。
* [[1913年]](大正2年) - 相生町通り(当時)が[[表参道]]に接続。現在の形となる。