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== 生涯 ==
安定郡臨涇県([[甘粛省]][[鎮原県]])の人。宣武帝の妃嬪として宮中に入り、充華から貴嬪に進んだ。聡明で才知深く、仏教を篤信した。当時の北魏の後宮では、皇子が立太子されるとその生母は死を賜うという習慣があった。そのため、妃嬪や宮人は皆全て皇女を産むことを祈願していた。そんな中で、当時の胡貴嬪は、自ら祈願して皇子を産んだ。それが、元詡、後の孝明帝である。その後皇太子の生母に死を賜るという風習は宣武帝によって廃止されたが、それによって皇太子の母が実権を握り、権勢を振るう弊害が生じることとなった。
 
こうして、孝明帝が即位すると、胡充華が皇太妃と尊称されるようになり、その後また皇太后に昇りつめ、臨朝聴政([[摂政]])するに及んだ。その執政には節度が見られず、その紊乱を理由に一時的に北宮に閉居させられた程であった。しかし、[[525年]]、[[宦官]]が実権を掌握し、臣下に政権争いが勃発すると、執政に返り咲いた。